”高島野十郎はこんな画家”研ぎ澄まされた絵が心に刺さる

”高島野十郎はこんな画家”と称して、超ストイックな生き様とその作品を辿りました。

高島画伯をご存知でしたか?

明治生まれとはいえ、潔癖な人柄想像を絶した絵画への思いに驚かされます。

野十郎の「作品の原点」とその背景である「彼の生き様」を探ります。

高島野十郎の生涯と作品

高島野十郎(たかしまやじゅうろう)

1890年(明治23年)8月6日〜1975年(昭和50年)9月17日 85歳死去

本名は彌壽(やじゅ)ーますます長寿という意味

私が高島画伯を知ったのは、祭りの炎の絵を描いている時でした。

絵画教室の先生に高島画伯の蝋燭の絵を見せられ、「これを見て勉強するように」と指導されました。

高島野十郎はこんな画家
作品「蝋燭」

その時に作品集を購入し、高島画伯の絵画を知り、また、野十郎のストイックな生き様を知って、大変惹かれました。

これから作品の説明に移る前に、先に少し野十郎の「生い立ちや生きた時代」を辿ります。

私は、画家の「生い立ちや生きた時代」を出来るだけ知りたいと思っています。

何故なら、それらを知ることによって、画家が絵に込めた思いをより深く知ることができると思うからです。

面倒な性格ですみませんが、少しお付き合いをお願いします。

野十郎が生きた時代

野十郎の生きた時代は、次のような時代でした。

少年期から青年期

  • 1894 〜1895年 (明治27〜28年/4〜5歳)日清戦争
  • 1904〜1905年(明治37〜38年/14〜15歳)日露戦争
  • 1910年(明治43年/20歳)韓国併合
  • 1914〜1918年(大正3〜7年/24〜28歳)  第一次世界大戦
  • 1920年(大正9年/30歳) 世界恐慌

日本は、日清、日露戦争に勝利し、その後も第一次世界大戦の物資供給国として繁栄していました。

明治以降ヨーロッパ文化が流入し、芸術・文化面でも大きく花開いた時代でもあります。

壮年期

  • 1923年(大正12年/33歳) 関東大震災
  • 1933年(昭和8年/43歳) 国際連盟から脱退
  • 1936年(昭和11年/46歳) 二・二六事件
  • 1939〜1945年(昭和14〜20年 /49〜55歳) 第二次世界大戦〜太平洋戦争

第一次大戦後の「供給過剰による恐慌」や関東大震災によって、日本は壊滅的な苦境に立たされ、戦争へと進んだ時代です。

画家として生きること自体が、精神的に厳しい時代であったと想像できます。

そして、戦後へ

ご存じのとおり、日本は「戦後の混乱期から高度成長期」へと変遷しました。

後述しますが、野十郎の作風にも時代背景が色濃く繁栄されています。

野十郎の生い立ち

1890年(明治23年)現在の福岡県久留米市東合川に五男二女の四男として生まれました。

久留米市は、青木繁、坂本繁三郎、古賀春江といった洋画家を輩出したところです。

高嶋家は酒造業を営む名家で、父は郡会議員などを歴任する名士でもありました。

野十郎の芸術性はどのように育まれたのでしょう。

父方は芸術に縁が薄いようですが、母方は違っていました。

野十郎の祖父は南画の才に長けており、叔父は東京美術学校西洋画科の卒業生でした。

ということで、身近に絵の才能に秀でた人がいました。

何よりも、長兄の高嶋宇朗(ウロウ/野十郎よりも12歳年長、1878〜1954)は詩人でした。のちに禅宗の僧侶になっています。

長兄は、青木繁( 1882〜1911)と「意気投合、信頼し合う友人関係」にありました。

高島野十郎はこんな画家
青木繁代表作「海の幸」

野十郎は後年、たびたび宇朗に絵の批評を求めましたし、のちに野十郎が仏教に深く関心を持つようになったのも兄の影響とされています。

野十郎は、中学時代から絵が好きで油絵を描いていたようです。

地元の旧制中学・明善校、そして名古屋の旧制・第八高等学校を出ています。

1912年(明治45年、22歳)東京帝国大学農学部水産学科に進学します。

長兄が詩人の道に進んでおることから、野十郎には家族から堅い技術者の道を希望されたようです。

大学時代にも絵を描いていましたが、一方で抜群の成績を残しています。同学科を首席で卒業しています。

そのため、特別優秀な卒業生に選ばれ、天皇から銀時計を受ける栄誉に推薦されます。しかし、野十郎はこれを辞退します。

この時には、すでに卒業後の進路を画道と決めており、潔癖な野十郎には素直に栄誉を受けとることができなかったようです。

優秀な学問の世界を捨てて野十郎が絵の道に進んだ、決定的な契機はわかっていません。

これは、あくまでも私の推測ですが、こんなことであったのでは!


野十郎は、大学では、魚の感覚に関する研究に取り組んでいました。

水産学の基礎演習として描いた魚介類の観察図がたくさん残されており、しかもそれらは、個体ごとのわずかな差異も見逃さずに精緻に描き込まれています。

こういったことを繰り返すうちに、写実絵画の基礎が修練され、いっそう絵画に傾倒していったのではないでしょうか。


卒業後、野十郎は画家となりましたが、どの会派にも属さず、独学を貫きました。

そのため、画家として広く知られていませんでした。

しかし、不思議なことに絵を描くことで生計が成り立っていました。

それは、中学や大学の多くの友人たちが彼の作品を購入したり、知人に斡旋していたからです。

野十郎は潔癖な性格上、素直にその善意を受け取っていたわけではないようですが、実際はこうした学友の善意に助けられていました。

野十郎の潔癖さは一見偏屈に見えるほどでしたが、実は人間的なふくらみやユーモラス、また人格的な高潔さと誠実さを持っていたのです。

そのため、多くの友人に慕われ、見守られていました。

高島野十郎はこんな画家
作品「れんげ草」

青年期には、絵画のモティーフを探して、武蔵野や秩父、信州、奈良などへも頻繁に出かけています。

故郷の筑後や筑紫野も好んで出かけました。

戦後にも、特に注目されずに、千葉県のアトリエに籠り絵を描き続けました。

生涯独身で過ごしました。

野十郎の作品について

野十郎の絵の原点

野十郎は、画塾に通ったり、誰かに師事したりしたことはなく、独学で学んだと言われています。

野十郎が影響を受けたと思われる画家としては、画家の岸田劉生が挙げられています。

岸田劉生の精神的な母体は白樺派です。

白樺派の唱えた理想主義や人格主義的な考えは、野十郎の琴線に触れたであろうに違いありません。

白樺派とは

1910年(明治43年)創刊の文学同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思想の一つです。
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作しました。
人生への疑惑や社会の不合理に憤る正義感に裏打ちされています。

 

野十郎が描いたモティーフ

野十郎が描いたのは次のモティーフに限られます。

  • 花や果実が置かれた卓上静物
  • 山野、田園、仏閣などの風景
  • 蝋燭の炎
  • 初期には、自画像を含む人物画
  • 晩年には、「月」

このような作画活動において、写実という軸足を全く変えず、ひたすら写実を追求しました。

野十郎の作品には「どこか生々しさ、息づいているような感覚」があり、「リアルな現実を再現しているが、虚構の現実」がありました。(画集より)

少しずつ、代表作をご紹介しておきます。

花や果実が置かれた卓上静物画

戦後の作品2点です。

テーブルクロスや壁、果物や枯れた葉っぱの精緻な描写に驚かされます。

戦後の作品はこのように明るい色合いに変わっています。

高島野十郎はこんな画家
作品「桃とすもも」
高島野十郎はこんな画家
作品「からすうり」

山野、田園、仏閣などの風景画

上段が戦前、下段が戦後の作品です。

ずいぶんと違ってきてるでしょ。

上段の絵は、枯れた色使いで統一され、木の曲線が不安感を感じさせます。

こんな絵もいいでしょ!シュールですね。

高島野十郎はこんな画家
作品「早春」
高島野十郎はこんな画家
作品「菜の花」

蝋燭の炎の作品

蝋燭は、長年描き続けられたモティーフですが、作品が個展に発表されることなく、それらは親しくした友人、知人に広く贈られました。

高島野十郎はこんな画家
作品「蝋燭」

自画像を含む人物画

若き頃の自画像です。

所々傷ついて血が流れています。

多感な青春時代の葛藤が読み取れます。

高島野十郎はこんな画家
作品「傷を負った自画像」

月の作品

月が描かれた作品も蝋燭作品も、「照らしている光源は描かれています」が、「照らされる対象は描かれていない」のが特徴です。

高島野十郎はこんな画家
作品「月」

野十郎の転機

野十郎は昭和5年から3年ほどヨーロッパに出かけています。

フランス、イギリス、オランダ、イタリアを巡りました。

ただし、多くの時間をパリで過ごしており、ひたすら教会や美術館を巡り、また、外で写生しました。

都会の風景よりも郊外や田園の村落を好んで描きました。

ヨーロッパでのこの経験は、それまでの画業を見直すきっかけとなりました。

岸田劉生からセザンヌですね。

高島野十郎はこんな画家
作品「パリ郊外」

野十郎の絵の特徴

野十郎の絵を西本匡伸さんが次の通り解説されています。

  • 描く対象物の色や形、あるいは風景の景観といった「情報」の単なる精確で総合的な集積物として描かれているのではない
  • その情報とは、別種の何かが反映している。それは画家としての個性である。
  • その個性も、技巧や工夫、変形、遊びといった画家が恣意的に情報に与える情報に与える操作としての情報ではない。
  • いくつかの可能性の中から選び取った操作としての個性ではなく、野十郎にとってはこれ以外にありようがなかった所為としての個性である。
  • 言い換えれば、この画家にとって描くことの必然の表れであるような、野十郎という画家のありようの本源的な生から切り離すことができないような個性である。
高島野十郎はこんな画家
作品「秋の花々」

さらに加えて、このようにも!

  • 野十郎は描くべき対象を画面の中心にすえている
  • 中心性や正面性が顕著に表されており、見るものに迫ってくる
  • 対象の表面性が強調されて、逆に奥行き感やボリューム感を薄めている
  • 張り詰めた空気によって、リアルな絵にもかかわらず、どこか現実とは異なり幻想的な趣きがある

ここで、野十郎の技術者らしい一面もご紹介しておきます。

<<野十郎のエピソード>>

野十郎は自身の作品は千年もつと豪語していました。
実際に、絵の具やキャンバスを戸外に置き、劣化の具合を観察して研究していたと言われています。

野十郎の絵に対する思い

野十郎の「絵に対する考え方」は、書き残した手紙でなんとなく理解できますので、添付しておきます。

自身の絵を追求する姿が読み取れます。

<<野十郎の手紙>>

「小生の研究はただ自然があるのみで古今東西の芸術家の跡を追い、それらの作品を研究参考にするのでありませんし、反対にそれらと絶縁して全くの孤独を求めているのですから、例えば名画の参考品を送ってくださっても何の役にも立ちません(中略)

「以前、武蔵野の写真集を送ってこられましたが、あれなど全くの無意義でした。高いお金を使われたらしいが、それで小生寸分の得るところありませんでした。

「今、上野で西洋名画展をやっている事知っていますが、行って見る気少しもありません。そこに何か小生の参考になりそうなものあると思えるなら、近くもあるし一度でも二度でも行ってみます。しかし、そこに何も求めていませんし見にいく暇と費用があれば、山の雪の中、野の枯れ草の中に歩き行きます。世の画壇と全く無縁になることが小生の研究と精進です。」

最後に

最後まで、お付き合いいただき、ありがとうございました。

野十郎は、ヨーロッパからの帰宅後には、久留米の実家に住むようになります。

初めは実家の二階や酒蔵をアトリエにしていましたが、のちに庭の一角に小さなアトリエを建てて住みました。椿柑竹工房(ちんかんちく)と呼んでいました。

しかし野十郎と高嶋家の人たちとの間で不和が生じ、2年後には東京に戻っています。これ以降、実家に戻ることはありませんでした。

「あくまでも潔癖な野十郎」と「現実社会で慎ましく、たくましく生きている人々」との当然の帰結であったかと思います。

野十郎らしいですね。

いかがでしたか?

いろんなタイプの画家がいますが、私は好きになれるタイプの画家です。

※次の作品集を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
少し高価ですが、充実した内容です。よかったらお手元に!

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感想(4件)

こんな風に、他のページでもいろんな画家を紹介しています。風景画家が多いです。

是非ともこちらを覗いてください。

私のおすすめ画家

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「風景画の旅」と言うテーマで、国内外の風景と自作絵画を動画にしてご紹介しています。

こちらもお立ち寄りください。お気に入りのモティーフが見つかるかも!

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グランFgranf1765
第二の人生に入り、軽い仕事をしながら、風景画を描いて過ごしています。現役の時に絵画を始めてから早10年以上になります。シニアや予備軍の方々に絵画の楽しみを知っていただき、人生の楽しみを共有できればとブログを始めました。