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油彩で花と街の風景を描いています

”版画家・川瀬巴水”が「東京20景」にかけた思いとは!

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」をご存知ですか?

関東大震災後に巴水が復興への思いを載せて制作しました。

東京20景は、浮世絵のような名所絵ではなく、感情で捉えた『街や人々の暮らし』の絵です。

巴水の生涯を辿りながら、その作品の素晴らしさを見つめます。

巴水の人生と作品を辿る
”版画家・川瀬巴水”

川瀬巴水(明治16/1883年ー昭和32/1957年)

私は、画家の生涯や時代背景を辿るのが好きです。

そうすることで、作品をより深く理解できるように思うからです。

少しお付き合いください。

巴水の人生

どんな時代に生きたのか

巴水は、和暦では明治16年に生まれて、昭和32年に亡くなっています。

存命中にはこんな出来事がありました。


11〜12才 (明治27〜28年) 日清戦争

21〜22才 (明治37〜38年) 日露戦争

22 才 (明治38年) 旧ロシア軍との日本海海戦

31〜35才(大正3〜7年) 第一次世界大戦

37才(大正9年) 世界恐慌

40才(大正12年) 関東大震災

50才(昭和8年) 国際連盟から脱退

52才(昭和11年) 二・二六事件

56〜62才(昭和14〜20年) 第二次世界大戦〜太平洋戦争


時代背景のまとめ

巴水・青年期までの日本は、日清、日露の戦争で勝利し、また、第一次世界大戦の頃には戦時の物資供給国として繁栄しました。

まさに、良き時代を謳歌していました。

しかし、第一次世界大戦後の過剰生産による世界恐慌、さらに関東大震災によって世の中が一変します。

後述しますが、関東大震災は巴水の版画家人生にも多大な影響を与えています。

その後、世界各地で戦争の火種が起き、第二次世界大戦・太平洋戦争に進んでいきました。

巴水の人生後半は、版画家として生きるに大変辛い時代であったろうと想像します。

どんな人生だったのか

幼少期の巴水

巴水は本名・川瀬文次郎、現在の港区新橋に生まれました。

日本が繁栄していた時代に育ち、家庭環境も割に恵まれていたようです。

父の庄兵衛は制作と販売を兼ねる糸組物職人でした。帯とか飾り紐を作っていたかと思われます。

手先の器用さと根気の求められる仕事であり、巴水にも受け継がれました。

一方、母のかんは芸事が好きで、巴水を5才くらいから芝居見物に連れ出したようです。

その影響もあって巴水は、物語が好きでした。

また、絵が好きで、6才の頃にはすでに役者絵や武者絵をよく見ていました。

学習期の巴水

14才で画家を志し画家の塾に入って絵を学び始めました。しかし、親戚から「家業を継がずに画家を目指すこと」を反対され、画塾をやめてしまいます。

その後、数年は絵を描くこともなく、家業の手伝いをして暮らしていましたが、19才の時に家業を継ぐ約束の下に再び画家の元で絵の勉強を始めます。

そうこうしているうちに、商才に欠ける巴水に代わって、幸か不幸か、妹が家業を継ぐことになります。

そして、巴水は本格的に絵の道に進むことになりました。

巴水が最初に学んだのは洋画でした。25才から2年間、葵橋洋画研究所に通い、岡田三郎助の指導のもとで油絵を学びました。

さらに27才の時、日本画家・鏑木清方に入門し、日本画を学びました。

この時に、鏑木から巴水の名を賜りました。

日本画家から版画家へ

30才頃から4〜5年間は、銀座白牡丹(和装小物の店)に勤め、広告図案、挿絵、各種図案を描いていました。

版画の道へ向かわせたのは同門の先輩・伊藤深水でした。

深水は、大正6年に多色擦りの版画「近江八景」を発表しました。

巴水はその美しさに大変刺激を受けるとともに、自分にもこれならできると版画制作に意欲をもやしました。

やがて深水と巴水は『新版画』の世界で活躍するようになります。

新版画と巴水

新版画を提唱したのは渡邊庄三郎です。

衰退した浮世絵を蘇らせた、最後の版元と呼ばれた人です。

明治末には浮世絵をやる絵師がいなくなり、浮世絵は消滅しつつありました。

そこで渡邊は、江戸時代の全盛期に匹敵するような版画作品を作りたいと思い、洋画家や日本画家を問わずに自分の考えに賛同してくれる人を見つけ、版画の在り方を議論しました。

そして渡邊らは、大和絵や日本画のような芸術性の高い版画を目指して邁進することを決意します。

やがて、巴水と深水は、多色擦りなどの技法を用いて渡邊の思いに応えます。

渡邊は巴水に風景画を、深水に美人画を託します。

下の絵は、巴水版画の初期の作品「若狭久出の濱」(大正9年・37才)です。

浮世絵とは違う、新しい世界観の誕生を見てとれますね。

”版画家・川瀬巴水”
若狭久出の濱
関東大震災と巴水

大正12(1923)年9月1日に関東大震災が発生します。

その際の大火で、巴水は写生帖188冊や画業の成果を家財と共に消失します。

渡邊も同様に、制作した版木や版画、収集した浮世絵や資料の大半を失います。

しかし渡邊らは震災後すぐに活動を再開します。

渡邊は巴水に写生旅行を勧めました。巴水は震災の翌月から102日に及ぶ大旅行を敢行し、各地の風景を写生して回りました。

一方渡邊は、バラックに彫師、摺師を呼び寄せ、復刻版の制作にかかりました。

復刻版は、以前よりも明るさ、鮮やかさが強調されており、売れ行きが好調でした。

そんな慌ただしい時期に、巴水の名作「東京20景」が生まれます。

巴水作品「東京20景」

大正14/1925年 – 昭和5/1930年

「東京20景」とは

「東京20景」は、関東大震災以降から昭和初期の巴水の作品(大判20枚)です。

巴水は、震災後に復興される東京の姿を、こんな思いで描きとめました。

「私は長い伝統を持つ東京が好きです。」

「一度ここぞと思いますと、生まれた時から住んでいるところだけに何か自分のものというような不思議な力が出て、思うままに写生のできるのが常です」

「東京20景」は必ずしも名所を描いている訳ではありません。

春夏秋冬の平凡な何気ない一瞬、感情で捉えた街の景色、人々の喜怒哀楽を表現しています。

それは風景でもなく、光景でもなく、情景と呼ぶべきかもしれません。

なんでもない普通の村里の景色や人々の生活、そんな普通の景色の中に風景の美が宿っています。

このような作風は、従来の日本画や浮世絵と異なる、新しい考え方でありました。

それでは、かいつまんで作品を見ていきましょう。

多くの水際の風景

「御茶の水」(昭和1/1926年)

降りしきる雪の中、灯った明かりにほっこりとした温もりがあります。

こんな風景を描いてみたいですね。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
御茶の水

「大根河岸の朝」(昭和2/1927年 

京橋の青物市場です。橋を行き交う人の向こうに、鮮やかな茜色の朝焼けが。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
大根河岸の朝

明石町乃雨後(昭和3/1928年)

築地のあたりです。遠くの工場や家並みにノスタルジーを感じます。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
明石町乃雨後

「荒川の月」(1929)

月明かりが荒川を照らす夜 、優しく月が見つめている。

河岸にポツンと立つ家の窓から溢れる光。ドラマがありますね。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
荒川の月

「大森海岸」(昭和5/1930年)

夜の大森海岸、漁に出る準備か、船のそばに2人の男とそれを見つめる女性が一人。

どこか心がざわつく光景です。

巴水が描いたのは風景そのものよりもそこに宿った人々の感情のようです。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
大森海岸
震災の被害を免れた物たち

浅草観音乃雪晴」(1926)

浅草観音は部分的な被害ですみました。

暮らしが戻りつつある様子を感じます。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
浅草観音の雪晴

「馬込の月」 1930

昭和五年、巴水は荏原郡馬込町(現南馬込)に転居します。

この地で東京20景随一と誉高い、この傑作が生まれました。

この松は、『馬込の三本松』と呼ばれ、自宅から歩いて20分ほどにある新馬込橋 の袂にありました。

松は昭和初期に無くなりましたが、巴水の版画として記録されました。

群青の空に満月、民家の小さな明かり。

ルネ・マグリットの絵ようにシュールな感覚さえ湧いてきます。

当時、大評判となった作品の一つです。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
馬込の月
最後に描いた風景

「平河門」 1930

  震災から7年、皇居・平河門でこの連載を完結させます。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」

なぜ巴水の版画は美しいのか

巴水は、洋画から色に対する感覚を磨き、日本画からは筆の運び方、絵の描き方を学びました。

巴水の美しい色合いや色使いは洋画と日本画を学んだことが生かされていると言われています。

一方、版画表現技法の面から「多色擦り」と「ザラ擦り」が、巴水の美の理由に挙げられています。

多色擦り

巴水版画の美しさの源の1つは、とにかく色数が多いことです。

浮世絵は平均すると16色くらい、巴水版画は35、6色、倍以上の色数を使って表現されています。

まず土台となる地味な色を擦り、その上から何度も何度も擦り重ねて深みを出しています。

完成までの順序を本にしたものが残されています。

ザラ擦り

巴水は芸術性を高めるために、この技法を使っていました。

『ザラ擦り』、これは浮世絵ではまず使わない技法であり、新版画ならではの独特の技法です。

『ザラ擦り』とは、何も掘られていない版を擦って、その木目を絵の下地することです。  

まず、最初に輪郭の彫られた線画の版木を擦ります。

次に擦るのが、『ザラ擦り』に使う何も彫られていない版木。

この版木に薄い絵の具をつけ、先ほどの絵を重ねて擦ります。

ここで使うのがザラ擦り用の場練(バレン)です。通常よりも目が荒いものを使います。

この場練で円を描くように擦ると、前面にザラついた色が載ります。

この色むらが完成した時に効果を発揮し、絵に奥行きを与え深みを演出してくれます。

雪の絵を見ていただくと、雪が積もった白い屋根や地面にその様を窺うことができます。

広重と巴水の対比

震災から2年後の大正14年、巴水は「東京20景」の制作を開始しました。

実は、歌川広重も同様の作品を遺しています。

広重は、江戸の街が安政大地震(安政2/1855年)によって破壊された直後に名所江戸百景」を制作しました。

広重は、地震の翌年から、この街が活気と賑わいを取り戻す姿を精魂込めて作品にしています。

その70年後に、関東大震災が起こり、今度は巴水が辛抱強く立ち直ろうとする人や街の姿、変貌する街の宿命を作品にしました。

「昭和の広重」と呼ばれた巴水でしたが、「賑やかな復興」を描いた広重とは違い、巴水は「静かなる復興」を描きました。

また、広重は街を誇るように風景を描き、一方、巴水は街に息づく人の姿を描きました。

広重と巴水は、いくつかの作品で同じ場所を取り上げていますので、比較しながら見てみます。

新大橋・隅田川

広重作「大はしあたけの夕立」(1857年)

通り雨でしょうか。豪雨の中、早足で駆け抜ける姿がイキイキと表現されています。

広重「名所江戸百景」
広重作「大はしあたけの夕立」

巴水作「新大橋」(昭和1/1926年)

巴水は、夜の帷が降りた橋を描きました。

雨が橋を濡らす中、陰影の中に車夫の姿が見えます。

静かに近づく車輪の音が聞こえて来るようです。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
巴水作「新大橋」

神田明神

広重作「神田明神 曙之景」(1857 年)

澄み切った朝の冷気に佇む神官と巫女を描くことで、地震の後も変わらぬ神社の風格を表現しています。

広重「名所江戸百景」
広重作「神田明神 曙之景」

巴水作「神田明神境内」(昭和1/1926年)

神田明神は関東大震災で社殿が焼失してしまいました。そんな姿を描いています。

高台から街の復興の光が望めます。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
巴水作「神田明神境内」

増上寺

広重作「増上寺塔赤羽根」(1857年)

手前に五重塔、奥に江戸の街が広がるパノラマ風景をカラフルな色合いで描いています。

広重は、高い視点、遠景で捉えており、人々は遠く小さく描かれています。

広重「名所江戸百景」
広重作「増上寺塔赤羽根」

巴水作「芝増上寺」(大正14/1925年)

「深々と降る雪の白」と「建物の赤」との鮮やかなコントラストが大変魅力的です。

巴水の思いが見るものの心に突き刺さるような、そんな絵ではないでしょうか。

”版画家・川瀬巴水”の「東京20景」
巴水作「芝増上寺」

巴水が見れる
太田区立郷土博物館

当郷土館では、「東京20景」をはじめ川瀬巴水にまつわる貴重な資料(写生帖など)を保有しています。

巴水作品を常設展示していないようですので、あらかじめ確認の上でお出かけください。

太田区立郷土博物館ーホームページ

最後に

大戦の足音が激しくなった昭和11年頃から、巴水は数年間スランプに陥ります。

そして、太平洋戦争が始まります。

巴水の活動はしばらく停滞しますが、戦後、晩年になって再び円熟期を迎えます。

しかし享年74才にて胃がんでなくなりました。

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巴水絶筆

巴水作「平泉金色堂」(昭和32/1957年)

巴水は胃がんと戦いながらも描き直しを重ねて、この絵を完成させました。

体は病んでも、気力はまだまだ健在だったようです。素晴らしいですね。

しかし巴水は、無念にも擦り上がった版画作品を見ることなく、旅立ちました。

”版画家・川瀬巴水”の絶筆
巴水作「平泉金色堂」

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最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

風景画家を中心に、今回のように紹介しています。

巴水のように素晴らしい方がたくさんおられますよ。

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グランFgranf1765
第二の人生に入り、軽い仕事をしながら、風景画を描いて過ごしています。現役の時に絵画を始めてから早10年以上になります。シニアや予備軍の方々に絵画の楽しみを知っていただき、人生の楽しみを共有できればとブログを始めました。