”日本画家・奥村土牛”(とぎゅう)をご存知でしょうか?
一般には馴染みの薄い画家ですが、彼の絵は今なお新鮮な感覚で人々の心を捉えています。
土牛は101歳で亡くなる直前まで芸術の高みを求めて描き続けました。
101歳絶筆の壮絶な画家人生と絵画を紹介します。
目次
”日本画家・奥村土牛”
人生と絵画を辿る
私は、2019年に山種美術館で開催された奥村土牛展で作品を鑑賞して大ファンになりました。
それまでも、お名前を伺ったことはありましたが、じっくりと作品を拝見する機会がありませんでした。
その後、本や画集から、土牛の芸術に対する思いを知り、ますますファンになりました。
土牛と山種美術館
山種美術館は、山崎種二(1893-1983)が個人で集めたコレクションをもとに、1966年(昭和41年)に日本初の日本画専門美術館として開館されました。種二は現SMBC日興証券の創業者です。
種二は横山大観をはじめ多くの画家と交流していますが、土牛とも昭和のはじめ頃から交流がありました。その頃の土牛はまだ知名度は高くはなかったですが、種二は土牛の将来性を見込んで支援し、作品を購入しています。
山種美術館は、戦後初の院展である昭和21年の第31回院展以来、ほとんどの土牛院展作品を所有しています。そのため、しばしば当美術館で土牛の個展が開かれています。
それほど遠くない時期に当美術館で土牛展が開催されるかと思いますので、その折は是非ともお立ち寄りください。
ところで、美術館を作った動機を、種二は次のように語っています。
「横山大観画伯から、『金もうけされるのも結構だが、この辺んで一つ世の中のためになるようなこともやっておいたらどうですか』と言われた」
奥村土牛・参考文献
以下は、土牛の伝記とも言える「牛のあゆみ」と画集「白寿記念・奥村土牛展」を参考にまとめたものです。画集「白寿記念・奥村土牛展」では、長年に渡って山種美術館に勤務されていた草薙奈津子氏の寄稿文を参考にさせていただきました。
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少年期から順に辿っていきます。
わかりやすいように年齢をつけていますが、誕生日の関係で1歳ズレているかもしれません。
少年期の土牛
少年期の履歴
- 1889年 明治22年2月18日 東京の京橋に生まれました。
- 父は出版社を営んでいましたが、父自身が画家を希望していたようです。
- 土牛は3人目の子でしたが、上の子は胎内や1歳で亡くなったため、実質的には長子でした。
- 土牛は生まれながらに病弱でした。10歳の頃までは医者の手を離れたことがなく、物心ついた頃に医者から「この子は気を付けないと15歳まで持つまい」と言われ、子供なりに大きな衝撃を受けています。
- 母は丈夫に育てたい一心で、子供の頃はもちろん成人してからも常にあふれる愛情を注ぎました。土牛は「母のこの一念がなかったら、私は今このように生きてあるかどうかは、わからない」と述べています。
- 土牛は子供の頃から、父に狩野派や円山四条派、南画などの絵をみせてもらったり、大家の展覧会に連れていってもらいました。父は自分の思いを託して土牛を画家にさせたかったようです。そんなこともあり、土牛は子供の頃から絵が好きでした。
- 12歳の時に祖母に子供芝居に連れていってもらい歌舞伎好きになります。
- 16歳 父の手配で日本画家・梶田半古氏の門に入り、画業修業を始めます。塾頭には小林古径がいました。
この年に日露戦争が終わり、日本中が勝利で沸きたっていました。 - 明治41年(19歳)徴兵検査を受けて丙種不合格となります。(丙種;体格、健康状態ともに劣るもの)
少年期のまとめ
以上の通り、土牛が画家になったのは父の教育・影響が大変大きいようです。16歳ですでに梶田半古の門に入門し、小林古径に兄事しており、新古典主義的作風に触れながら過ごしています。
当時は日露戦争に日本軍が勝利し、軍人が称賛される時代でありました。しかし土牛は体格的に適さず徴兵を免除されています。その劣等感や反発が一層絵画に向かわせたのかもしれません。
青年期の土牛
青年期の履歴
- 明治44年(23歳) 逓信省に特別嘱託として勤めを始めます。仕事はポスターなどの制作で、給料は大卒並みでした。
半古塾には滅多に顔を出せなくなりましたが、仕事の合間や休日に方々で写生をしていました。 - この年に明治天皇崩御。
- この頃の日本画界には、横山大観、川合玉堂、菱田春草、下田観山、竹内栖鳳といった気鋭の画家が台頭し、旧派の画家と対立していました。
- 逓信省に5年ほど勤めて辞めます。
- 大正6年 28歳 師である梶田半古氏が亡くなります。その後は、小林古径の指導を受けています。
スケッチ集「スケッチそのをりをり」を出版。出版に際して、父が土牛の号を授けます。
中国・唐時代の寒山の詩に「土牛、石田を耕す」とあり、そこからとった。牛が石ころの多い荒れ地を根気よく耕して美田に変えるように、たゆまぬ努力を名に込めました。濁らずに「とぎゅう」と読びます。 - 大正11年の秋(33歳) 父が突然脳溢血で倒れます。生計のため、土牛が父の仕事を引き継ぎます。
そのために、絵が疎かになりがちでしたが、絵のことが頭から離れることはなかったようです。 - 1923年大正12年9月1日 関東大震災で被災し、描き溜めたスケッチや作品を焼失すします。
- 大正13年 父の仕事を続けつつ、震災で満足に絵具のない状況でもありましたが、 春の院展には「冬池」を、中央美術展には「家」「初夏菜果」を出品、中央美術賞を受賞しています。
- 同年 土牛の絵の理解者であった妹が病死します
- 大正14年 中央美術展の会友に推挙されます。
- 大正15年 制作に迷いを感じていた折、古径の勧めで速水御舟を尋ね、絵の指導を受けています。
- 昭和2年 院展に初入選「胡瓜畑」、その後は毎年出品し入選しています。
- 昭和4年(40歳)古径の紹介で徳島生まれの森仁子と結婚。生涯で4人の息子と3人の娘を授かります。
青年期のまとめ
父が脳溢血で倒れたため、父の仕事を引き継いだり、関東大震災で全てを消失するなど、波乱の青年期であったようです。そんな中でも絵画への思いを断ち切れずにコツコツと制作を続け、38歳で院展初入選を果たします。
そんな修業時代の土牛にとっては、「何を描くか」が常に大きな問題でありました。
土牛はまず日常身辺のものに目を向けました。その結果、あまりにも庶民的な作風となり、新古典主義が主流であった日本画壇で長く苦しんだようです。
しかし土牛は、美しいものを美しく描くことで満足せず、速水御舟が虫食いの葉、枯れかかった花から「日向葵」という傑作を生んだことに刺激を受け、修業を積んでいます。また、大正8、9年頃からセザンヌに強い関心を抱き、模写まで行っています。
40歳で結婚していますが、その頃から土牛の花が開き出したようです。
壮年期の土牛
壮年期の履歴
- 昭和7年 日本美術院の同人に推挙されます。
- 昭和10年(46歳)帝国美術学校(現;武蔵野美術大学)の教師として迎えられ、週に2度ほど通っています。
- 昭和11年 新院展に出品した「鴨」が入選、推奨1位、政府買い上げとなり、
2/26に山王ホテルで祝いの席が持たれました。
偶然にも、その日に二二六事件が起きます。 - 昭和12年 父が肺炎で亡くなりました。
- この頃、日本画家の酒井三良氏とたびたびスケッチ旅行に出ています。
- 昭和15年 土牛51歳 急性肺炎で倒れ、一時、重体となります。
- 昭和16年(52歳) 太平洋戦争勃発
- 土牛は、横山大観の次の言葉に強く感銘を受けています。
「絵というものは、山水を描いても、花鳥を描いても、宇宙が描けなかったら芸術とは言えない」
「鳥を描くなら鳥の声も聞こえなくてはならぬ、それが宇宙の生気というものだ」 - 昭和19年 戦時特別美術展に「信濃の山」を出品し、文部省買い上げとなります。
戦火が激しくなり、戦時中最後の展覧会でした。
土牛は戦火の状況を次のように記述しています。
「学校の隣の博物館の前に高射砲が置いてあって、そのせいか学校の庭にも焼夷弾が絶えず落ちていた。」
「校舎の窓ガラスはあちこちが破れーーその寒風の中で先生方との研究会は続けられーー」 - 家族は長野県南佐久郡臼田町に疎開していました。
母にも疎開を勧めたが嫌がられ、長男と妹と共に土牛が東京に残っていました。 - 昭和20年2月 母親が亡くなります。
土牛「葬式はおろかほとけを入れるお棺一つない」ご時世でした。 - 昭和20年5月 大空襲があり家を焼かれ土牛自身も長野県へ疎開
- 昭和20年8月15日 終戦
土牛「陛下の重要な玉音放送があるとの知らせに、ーー 袴をつけて家内とラジオの前に正座した」 - 土牛一家は戦後もしばらく長野に滞在しています。
そこから、展覧会に出品し、大学に通いました。
21年には写生にも身を入れ始めています。
土牛「写生の対象は、周囲にいくらでもあるといってもよかった」と風光明媚な信州での生活を好んでいました。
壮年期のまとめ
土牛の壮年期は太平洋戦争前後の混沌とした時代、そして父母共に亡くなり、土牛自身何かと苦難の時期であったようです。そんな中でも横山大観などからの刺激を受け、精力的に制作を続けていたことが窺えます。
戦火を逃れるため妻子を先に信州に疎開させていましたが、土牛自身も母を看取った後に疎開します。作品「信濃の山」は疎開先でのスケッチをもとに制作されたものです。
土牛は風光明媚な信州で「写生の対象は、周囲にいくらでもあるといってもよかった」と語っています。信州での疎開生活が土牛作品に少なからず影響を及ぼしていることを伺い知れる言葉です。
老年期の土牛
土牛は遅咲きの画家として知られていますが、青年期、壮年期の社会情勢、家庭状況を知ると、それがやむを得ないことであったと納得できます。
老年期の履歴
- 昭和26年(62歳)信州を引き払い東京に戻ります。
- これ以降、数々の名作・大作を制作しています。
代表作の「醍醐」「吉野」など - 昭和37年 73歳で文化勲章受賞
- 平成2年 1990年 101歳で永眠
老年期のまとめ
社会的にも家庭的にも落ち着き、いよいよ土牛が本領を発揮できる時期を迎えます。
ところで土牛が62歳を迎えた昭和26年の男性の平均寿命は60.8歳です。すでに寿命がきている年齢でした。そこから101歳の絶筆まで描き続けた体力と気力に敬服する限りです。
私は昭和28年生まれですが、91歳で亡くなった母がたびたび語っていました。「私が若い頃の60歳代の人たちは、もう腰が曲がっていたりして、今とは全然違う」と。そんな時代ですので、なおさらです。
山種美術館では土牛の白寿(99歳)を記念して、展覧会を催しています。その際に土牛は、新作を発表しています。富士山に関わる「山なみ」です。
この制作中に数えで99歳を迎えた土牛が次の言葉を残しています。
ー私は今までやったことのない新しい試みをしているところですー
何か生きていることが、恥ずかしくなるような言葉ですね。
土牛芸術とは
長年に渡って山種美術館に勤務されていた草薙奈津子氏は次のように述べています。
- 土牛芸術で常に指摘されるのは、写実、新古典主義、そしてセザンヌの影響です。
- 土牛は徹頭徹尾写実の画家であり、自然主義的写実に対する嗜好を持っていました。
- 老年期になってからの土牛は「写実から一歩距離をおき、形を簡略化することによって、その奥にある普遍的なものを象徴的に表現した」
- 土牛は造形的表現の中に日本画の伝統的余白との関連をも示しながら、種々の空間表現を試みている。作品「鹿」、「大和路」
最後に
私にとって足元にも及ばない偉人ですが、老いを生きるにあたって灯りを照らしてくれる画家です。
土牛は晩年になって、こんな言葉を残しています。こんな絵画人生が送れるといいですね。
「八十を半ば過ぎましたが、今になって分かった事や分かりかけた事を余命のある限り仕事にしてみたいと思います。ーー 今でも仕事をしている間は二十時代と変わりなく、少し病気で十日も寝ると老人になります。私は今仕事をするだけで生きています。」
「私はこれから初心を忘れず、つたなくとも生きた絵が描きたい。難しいことではあるが、それが念願であり、生きがいだと思っている。芸術に完成は有り得ない。要はどこまで大きく未完で終わるかである。余命も少ないが、1日を大切に精進していきたい」
画家には心や体を病んで早世される方もおられますが、土牛のように長生きして晩年まで自身の絵の完成を求め続けた方も結構多いようです。
その理由と思われることを次の2つのページに書いておりますので、是非ともそちらもご覧ください。
このページでは、ボーボワールの「老い」という本から、老いを生きるための答えを探っています。芸術家への優しい言葉が気に入りました。
このページでは、哲学者三木清「人生論ノート」から「幸福と絵画」について紹介しています。
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