”ミュシャ”の晩年の超大作である油彩画「スラブ叙事詩」をご存知でしたか?
ミュシャはポスター画家としてアール・ヌーボーの第一人者の顔で有名です。
一方で、彼はもう一つの素晴らしい顔を持っています。
2つの顔を持つミュシャの人生と絵画を辿っていきます。
”ミュシャ”の人生と絵画を辿る
上述のようにミュシャはこんな2つの顔を持っています。
- ポスター画家としてアール・ヌーボーの第一人者
- アカデミックで伝統的な油彩画家
一つは時流を先取りした画家の顔で、もう一つは伝統的な画家の顔、これらは全く異なるようにも見えます。
しかし、ミュシャはアール・ヌーボーの第一人者になってからも、この2面性を持ち続けました。
当ページではこの2面性を取り上げつつ、特に2つ目の「伝統的な油彩画家の顔」を主体に解説していきます。
ところで、ミュシャは自らの芸術に対して、次のように語っています。
「サロン(大規模な展覧会)を訪れる限られた人々のためでなく、広く民衆のための芸術に奉仕できることを嬉しく思う。」
「私が目指すのは金持ちのための芸術ではなく、民衆にも手の届く芸術である。」
これが、ミュシャが生涯に渡って貫いた信念でした。
まずミュシャの生涯を辿るところから始めます。
次の本などを参考にさせていただきました。
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”ミュシャ”の生涯
アルフォンス・ミュシャ
1860-1939
※文中では、わかりやすいように西暦でなく年齢の方を主にしていますが、誕生日の関係で1歳ずれている可能性があることをご了承ください。
誕生〜18歳の出来事
”ミュシャ”
ミュシャはオーストリア帝国領モラヴィア(現チェコ)のイヴァンチッチェに生まれました。
モラヴィアをググると北海道のような大平原の写真が多数掲載されていました。風土も気温的にも北海道に近いようです。
イヴァンチッチェは、ブルノから10kmほどにある町です。ブルノは首都・プラハに次ぐ第二の都市です。
当時のイヴァンチッチェでは、人々はローソクで暮らし、鉄道はまだなく、徒歩で旅し、裸足で歩くものもいたという生活でした。
その頃、日本では明治時代が始まったばかりですので、ヨーロッパとは言え、東欧の地方の町ではそんな状況であったのでしょう。
そして、中学校はブルノ中学に入り、教会の聖歌隊の一員になりました。家庭環境は芸術とは無縁でしたが、子供の頃は音楽家を志望していました。
しかしながら、15歳の時に声がうまく出なくなり諦めています。中学では聖歌集の表紙絵を描くなど絵が得意でした。
中学を中退して、地方裁判所で働き始めます。
中退の理由は分かりかねますが、家庭の事情があったのかもしれません。
19歳〜26歳の出来事
”ミュシャ”
19歳の時にウイーンへ行き舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通っています。しかし2年後に失業し帰郷することになります。
ミュシャにとって失意の帰郷であったと思われますが、なんと、その列車の旅の途中にたまたま滞在した町で絵の才能を認められることになります。また、得意のバイオリンも評判となり、街の人気者になりました。
そして、そこで偶然にも出会った、ある貴族が彼の絵の才能を高く評価し、幸運にも彼のパトロンになってくれました。
25歳の時に、その貴族の援助によりミュヘン美術大学に入学し、2年間で、伝統的かつアカデミックな芸術を身につけました。
ミュシャの息子イージーは、父をこんな風に語っています。
「父の生涯では偶然が常に大きな役割を果たした」
この出会いはその偶然の一つと言えるでしょう。
27歳〜49歳の出来事”ミュシャ”
ミュヘン大学を卒業と同時に(27歳)、パリへ進出します。
ミュシャはパリへ進出した後にも、伯爵から奨学金をもらっていました。しかし、2年後に打ち切られることになります。
ミュシャはその後もパリにとどまり、歴史書や挿絵を描いて生活していました。
その頃のパリの芸術界はこんな状況でした。
ちょうどミュシャが移る前年に印象派の最後のグループ展が開かれています。
当時は、次世代のスーラ、シニャックなどの新印象派(点描派)が台頭し、印象派からの移行時期にありました。
パリ芸術がまだ華やかな時代ですね。
34歳の時に、ミュシャにシンデレラ・ストーリーが巡ってきます。更なる大きな偶然です。
その時、ミュシャは印刷業者に勤めていました。
その日は、クリスマスでした。店にパリのルネッサンス座から、翌年の正月公演でサラ・ベルナールが演じる新作「ジスモンダ」のポスターの依頼が入りました。
クリスマスということで、残っていたデザイナーはミュシャだけでした。
ミュシャはそれまで雑誌の挿絵などの仕事しかしていませんでしたが、劇場に行ってサラをスケッチし、ポスターの下絵を制作しました。
そのビザンティン風の絵をサラは大変気に入ったと言われています。
そして、このポスターがパリの街に張り出されるやいなや大評判になりました。
これを契機にミュシャはサラと6年間の契約を結ぶことができ、一気にポスター界の寵児になりました。
ミュシャのポスター界における、その後の華麗な活躍については、ここでは割愛させていただきます。
ここで注意したいのが、
「ミュシャはポスターで大きな成功をしたにもかかわらず、彼の画風や主題がアールヌーボー一色に染まらなかった」ということです。
ミュシャは、アカデミックな巨匠たちを彷彿させる画風・主題を堅持し続けていました。
この2面性が最終的にスラブ叙事詩として結実することになります。
リトグラフとミュシャ
ミュシャがポスターで成功した背景には、18世紀末に開発されたリトグラフという石版画技術の進歩があります。
リトグラフは簡単に言えば石版に図柄を描いて印刷する技法で、色彩表現に優れ、大版印刷も可能でした。19世紀半ばには1時間に1万枚を刷れるほどの印刷スピードでした。
そのため、ミュシャが活躍した頃は、ポスターの黄金時代でした。有名なロートレックも同時代のポスター画家です。
アール・ヌーボー
イギリスを起源とする美術工芸運動です。
アール・ヌーボーとはフランス語で「新しい芸術」を意味します。
彼らは、かってのような王侯貴族の豪邸や教会などを飾るものでなく、民衆の生活に溶け込んだ芸術を求めました。
「自然に帰れ」という理念を持ち、花や植物などの有機的なモティーフや自由な曲線の組み合わせによる従来の形式に囚われない装飾性を追求しました。
なお、ガラス細工などの工芸品ではガレが第一人者です。ガレも魅力ですね。
1900年(ミュシャ40歳)に開催されたパリ万博がアール・ヌーボーの頂点でした。
ミュシャとアメリカ
ミュシャは44歳の時に初めてアメリカに渡ります。以後、合計6回、アメリカに渡っています。
当時、アメリカは世界の富の象徴であり、様々な商品に向けたポスターの大市場でした。そんな国でミュシャは大歓迎され、成功を収めました。
さらにアメリカでは、もう一つ大きな収穫がありました。「アメリカ・スラブ協会」を設立した富豪、チャールズ・R・クレーンの知己を得たことです。
彼は、ミュシャが構想していたスラブ叙事詩プロジェクトに共鳴し、叙事詩完成に至るまで、さまざまな形で援助をすることになります。
50歳〜79歳の出来事
”ミュシャ”
ミュシャは50歳の時に母国の首都プラハに戻り、ここを拠点に活動するようになります。
その後のミュシャは、スラブ叙事詩を中心とした絵画作品に精力を傾けますが、ポスター作品も折に触れて制作しています。
ただポスターの多くは、フランス時代と違ってスラブ民族を濃厚に感じさせるものに変わりました。
ミュシャが68歳の時、ついにスラブ叙事詩として20点の巨大な油彩作品を完成させます。そして、それらをチャールズ・R・クレーンとともにチェコ国民及びプラハ市に贈呈しました。
79歳、第二次世界大戦の直前、ドイツがチェコスロバキアに侵攻した際にミュシャはゲシュタポに拘束・尋問されます。帰宅は許されましたが、健康を損ない間も無く死去しました。
スラブ民族のチェコとは
ミュシャがスラブ叙事詩を構想するに至った背景をたどります。
チェコとは
第一次世界大戦終結後の1918年〜1993年までは、チェコは隣国のスロバキアと統合されてチェコスロバキアと呼ばれていました。昭和世代の私には、チェコスロバキアの方が馴染んでいます。
現在はスロバキアと円満に分離し、元のチェコとスロバキアに戻っています。
チェコは9世紀に建国され、独立国となりました。一時は中央ヨーロッパを席巻するほどの勢いがありましたが、17世紀の三十年戦争に敗れてからは周辺の大国の植民地的な位置付けに落ちていました。
こうしたことから、19世紀には汎スラブ主義を掲げるチェコ民族復興運動が起こり、民族意識が喚起されました。
スラブ民族とは
ヨーロッパの民族は、大きくラテン系、ゲルマン系、スラブ系に分けられます。
- ラテン系民族 :
ヨーロッパ南部(フランス、イタリア、スペイン、ホルトガルなど) - ゲルマン系民族:
ヨーロッパ北西部から中部(ドイツ、イギリス、ノルウェーなど) - スラブ系民族 :
東欧諸国などの東部(チェコ、ウクライナ、クロアチア、ロシアなど)
こうやって分類されると、特性がよく理解できますね。
汎スラブ主義とミュシャ
汎スラブ主義は、19世紀初めのハンガリーの民族運動に触発されて始まります。
スラブ系諸民族の連合・統一を目指した思想・運動です。
当時、トルコやオーストリアの支配下にあった、バルカン半島や東欧の国々において、スラブ民族の解放運動として始まりました。
19世紀後半には、ロシアの南下政策と連帯し、ドイツ-オーストリアが推進する汎ゲルマン主義と衝突しました。
外国に暮らしているミュシャにとって、この動向は祖国への思いを一層たぎらせるに十分な出来事でした。
油彩画『スラブ叙事詩」と
”ミュシャ”
ミュシャの油彩画
ミュシャが生きた時代のフランスはベル・エポックと呼ばれています。ベル・エポックとはフランス語で「美しい時代」を意味し、19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までの間、パリが華やかに繁栄した時代を指します。
ベル・エポックは、芸術においては印象派と象徴主義の時代にあたります。
ミュシャの油絵も典型的な象徴主義的な作品です。
象徴主義の芸術家たちは、物質主義や享楽的な都市生活がもてはやされる風潮に反発し、人間の内面に目を向けました。
といってもミュシャの場合は、アール・ヌーボーと象徴主義は決して対立するものではありませんでした。
象徴主義とは
象徴主義とは、19世紀後半にフランスとベルギーで起こり、ヨーロッパ全土とロシアに波及した芸術運動です。
この運動は、文学、音楽、そして美術と広範囲に及びました。
同時代の動きに印象派があります。印象派の芸術家たちは目に見えるものを忠実に画面に写し取ろうとしました。一方、象徴主義の芸術家たちは目に見えないものを描き出そうとしました。
象徴主義の画家は、人間の苦悩や不安、運命、精神性や夢想などの形のないものを、神話や文学のモティーフを用いて象徴的に描いています。
スラブ叙事詩制作へ
ミュシャの想い
スラブ叙事詩はご紹介してきた通り、ミュシャが後半生20年近くに渡って、画家の全てをかけて描いた超大作です。
ミュシャがスラブ叙事詩を制作するに至った理由は、次のように推察されています。
- 祖国を離れても決して変わることのなかった祖国愛の深さ
- 植民地主義に対抗してスラブ民族主義が高揚した時代に生きたこと
- フランスで大きな成功を得た、ミュシャの祖国へ恩返し
スラブ叙事詩の作品
スラブ叙事詩は巨大な20作品で構成されています。最大の作品は高さ6.1m、幅8.1mで、まさに壁画的な規模です。
どのような要領で描いたのか、一人or数人で描いたのか、わかりかねますが、巨大作品を少なくとも1年に1作品のペースで制作しています。それだけでも、もの凄い執念を感じます。
スラブ叙事詩では、紀元前3世紀頃からのスラブ民族の苦難と栄光を描いています。それらの作品は、まさにアール・ヌーボーや象徴主義で重ねてきた画力が結集された作品ばかりです。
特に優れたデッサンと鮮やかな色使いが魅力ですね。私は、日本人ですのでスラブ民族の想いを十分に理解できませんが、絵から伝わるミュシャの一途な想いに不思議に感情を呼びおこされます。
全ての作品をご紹介することはできませんが、イメージだけでも掴んでいただければ幸いです。
❶ <故郷のスラブ人> トゥラン人の鞭とゴート族の剣の間で
平穏な農耕民族として生きていた草創期(紀元3〜6世紀頃)のスラブの苦難を描いています。
❷ <ルヤナ島のスヴァントヴィト祭> 神々が戦う時、救いは芸術にある
ルヤナ島はバルチック海に臨む島で、白亜の断崖で有名です。そこにスラブ民族は彼らのスヴァントヴィトを祀る神殿を建てました。そこでの収穫祭の光景を描いています。
❸ <大ボヘミアにおけるスラブ的天礼の導入> 母国語で神を讃えよ
舞台は9世紀のモラヴィアの要塞都市の中庭です。スラブ語によるスラブ式の典礼が東ローマ帝国の勅使によって導入される模様を描いています。
❹ <ブルガリア皇帝シメオン> スラブ文学の明けの明星
皇帝シメオン(882-927)は東欧のキリスト教徒にとって中興の祖。高僧であると同時に勇猛な戦士でもありました。彼の治世にブルガリアの領土は大幅に拡大されました。
❺ <ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世> スラブ王朝の統一
チェコの歴史上最も偉大な王の一人です。(13世紀)王はかっては敵であったハンガリー王朝との縁組によって平和と統一を実現しました。
❻ <セルビア皇帝ドゥシャンの東ローマ帝国皇帝即位> スラブの法典
即位の式典(1346)後の皇帝を祝う行列を描いています。皇帝よりも民族衣装を身につけた若い娘が目立ちます。
❼ <クロムェジーシュのヤン・ミリーチ> 尼僧院に生まれ変わった庄屋
ヤン・ミリーチは14世紀の若い神学者です。町の娼婦たちが前非を悔いて、彼女らの職場を修道院に作り変えている様を描いています。
❽ <グリュンワルトの戦闘の後> 北スラブ人の団結
ドイツ軍に勝利した15世紀初めの戦いを描いています、その犠牲者を描いており、戦争の意味を問うています。
❾ <ベトレーム礼拝堂で説教するヤン・フス> 真実は勝利する
ヤン・フスはカトリック教会に異端の宣告をされ、火刑に処せられます。プラハの礼拝堂で熱弁をふるう姿を描いています。
➓ <クジーシュキでの集会> プロテスタントの信仰
フスの死は信者たちの結束をを強め、ローマ・カトリックとの対立を深めます。そしてフス戦争(1419年〜)に発展します。フス派の集会の重苦しい姿を描いています。
(11) <ヴィートコフの戦闘の後> 神は権力でなく真実を伝える
カトリック教会率いる十字軍に勝利し、神に祈りを捧げるチェコ軍の姿を描いています。
(12) <ヴォドナャ二のペトル・ヘルチッキー> 悪に悪を持って応えるな
フス戦争では内紛が起きています。絵はフス運動の負の側面を描き出しています。
(13) <フス教徒の国王ポジェブラディのイジー> 条約は尊重すべし
ローマ法王庁の要求を断固拒否し、チェコの独立を守った15世紀の名君の姿を描いています。
(14) <クロアチアの司令官ズリンスキーによるシゲットの防衛>キリスト教世界の盾
トルコ軍の侵攻に立ち向かう姿を描いています。シゲットの防衛に成功させ、トルコ軍の侵入を止めました。
(15) <イヴァンチッチェでの聖書の印刷> 神は我らに言葉を与え給うた
聖書をギリシャ語からチェコ語に翻訳するという偉業を成し遂げた人々や、それを読み聞かせてもらっている人々を描いています。
(16) <ヤン・ヤモス・コメンスキー> 希望の灯
17世紀、ハプスブルク家の支配下に入ったチェコから亡命した宗教指導者です。
(17) <聖アトス山> オーソドクス教会のヴァチカン
ギリシャ正教の聖地アトス山への巡礼の姿を描いています。
(18) <スラブの菩提樹の下で誓いを立てる若者たち> スラブ民族の芽生え
19世紀末にチェコで結成された自由主義的、民族主義的な結社の集会がテーマです。
モスクワの赤の広場での、ロシアにおける農奴制廃止宣言(1861年)を描いています。
(20) <スラブの歴史の神格化> 人類のためのスラブ民族
スラブ民族の歴史の集大成です。
最後に
ミュシャが50歳で祖国に帰った頃、プラハの美術界はパリと同様にキュビズム、フォービズム、表現主義などが主流になりつつありました。
そのため、ミュシャがそれ以前の象徴主義の元にスラブ叙事詩を制作し続けることに、進歩派の画家たちは理解を示しませんでした。
それでも、ミュシャは信念を変えず、制作を続けました。
現在、日本ではミュシャが結構人気のようです。何故なのでしょうか。
第一次世界大戦前のチェコと、閉塞感の漂う現在の日本が、似通った状況にあるためでしょうか?
チェコに行って是非とも本物の作品を観たいものです。
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外国人の画家では、ショーン・タンやアンリ・ルソーなどを取り上げていますので、よかったら引き続きお立ち寄りください。