”画家・江上茂雄”はこんな人!101歳絶筆、風景画2万点

”画家・江上茂雄”さんは、アマチュア画家として、101歳で亡くなる直前まで風景画を描き続けました。

身近な風景を独自の感性で切り取り、クレヨンや水彩絵の具で2万点に及ぶ作品を制作しています。

こんなすごい画家の生き様と作品を知りたくないですか。

きっと生きる力をもらえます。

”画家・江上茂雄”さんの
壮絶な絵画人生

江上茂雄さんは明治45(1912)年に福岡県に生まれました。

江上さんが生きた時代・社会を振り返りながら、江上さんの画家人生をたどります。

これを知るとますます江上ファンになりますよ。🤗

少年から青年期
”画家・江上茂雄”

少年から青年期の日本

1912年に大正時代が始まっていますので、江上さんは、ほぼ大正1年生まれです。

時代背景は、江上さんの画家人生に大きな影響を与えているようですので取り上げました。

  • 1914〜1918年(大正3〜7年)2〜6歳
    第一次世界大戦が勃発、日本も参戦して、ヨーロッパへ派兵しています。
    とは言え、日本本土や植民地に被害はありませんでした。

    日本はその間、世界の物資の生産拠点となったため、空前の好景気を迎えました。
  • 1923年(大正12年)11歳  
    この年に関東大震災が発生しています。
    この頃は、第一次世界大戦終了後の過剰生産により不況に陥っている時期でしたので、日本経済はさらに大きなダメージを受けました。
  • 1927年(昭和2年)15歳
    昭和金融恐慌から世界恐慌へと発展していく時期です。

    そして世界情勢が不穏になり、第二次世界大戦の足音が聞こえるようになっていきました。
  • 1931年(昭和6年)19歳
    満州事変が勃発します。関東軍が中国で軍事行動を起こし戦時態勢に入りました。
    これが太平洋戦争への一歩になり、日本が大戦へと向かっていきました。
  • 1942〜1945(昭和17〜20年)30〜33歳
    太平洋戦争から敗戦へ

まさに、激動の時代に育っています。

子供時代の江上さんの決意

江上さんは、福岡県の瀬高町に生まれ、その後早くに一家で大牟田に引っ越しています。

お父さんは左官職人、そしてお母さんと姉、妹の5人家族。

小学6年生の時にお父さんが亡くなったため、高等小学校を出て15歳で働き始めました。

先述の通り、江上さんの子供から青年になる頃は、関東大震災や昭和恐慌などで、日本が経済的に大変厳しい時代であり、また満州事変などを契機に太平洋戦争へ突き進む時代でもありました。

当時の社会情勢や江上さんの家庭状況において、絵描きを目指すことは極めて困難であったはずですが、子供時代に江上さんはこんな決意をしています。

「私の原点というかな、少年時代に考えたことはですね、

ひとりの画家としていきたい。

江上という人間は、あれもしたい、これもしたい、

しなくしゃならんかもしれんけど

ひとりの画家として生きるんだ』ということは、

ぱっと決めていましたね。

出来るかどうかはわからんが、自分の覚悟としては、

江上という人間はひとりの画家として、

この世を生きていくんだ。というぐらいに、

それは決まっていたように思いますね。」

この決意は、小学校6年生の時に出会った美術の先生との触れ合いによって決定付けられたようです。

というのも、江上さんは、絵が大変うまかったため、その美術の先生が特別に目をかけてくれ、絵の指導をしてくれました。その先生との縁は、高等小学校に移って、また社会人になってからも続きました。

江上さんもそれに応えて、熱心に絵に取り組んだと語っています。

後年になっても、その先生が江上さんの絵を展覧会に出品してくれ、何度か賞をもらったこともあります。

15歳で就職

高等小学校を卒業するとともに、担任に勧められて三井三池鉱業建築課に勤務します。江上さんは学校での成績も良かったようです。勤務し始めた頃は、製図のトレースなどをしていたとのこと。

会社勤めを始めてからも日曜画家として熱心に絵を続けました。その頃は、風景画よりも静物画を描くことの方が多かったようです。

例えば、植物の細密描写シリーズ作品『私の鎮魂花譜』があります。

江上さんはこの作品に深い思い出があります。

というのも、江上さんは体格がなかったため、兵役を免除されました。当時は軍人を称賛する社会風潮でしたので、大変肩身の狭い思いで過ごしていました。

江上さんは、この作品を「その負い目のような気持ち、我が魂を鎮めるために描いた連作である」と語っています。

また、抽象画も多く描いています。この頃には、美術誌などでヨーロッパ絵画に触れる機会もあり、自分なりに試みを重ねています。

風景画への傾倒

江上さんは、「仕事をしながら絵を描いていくんだ」という決意をしてからは、ずっと風景画を描いています。

風景画を描く理由を、次のように語っています。

「少年の目に映った自然、

風景だけが優しかったという記憶があります。

人間は、そのときで人によって区別しますし、

ところが自然は誰にでも同じ姿を見せてくれる

それが、私が自然の風景の中にのめり込んだ理由

人間の世界には、身分や名前などによって違いがあるが、

自然はみんなに同じ顔だと、子供ながらに非常に思いました。

私が風景にのめり込んだのはそれがあると思います。」

大変厳しい社会情勢の中、母子家庭で、まだ社会福祉が不十分な時代に育ちました。そんな中で、こんな風景への想いが身体に染み込んでいったのかも知れません。

どんな画材で描いたのか

小学校ではクレヨン・クレパスを教わり、その後は水彩で描いていました。

20歳くらいから、クレヨン・クレパスの作品が混じり始め、30歳半ばになるとクレヨン・クレパス作品ばかりになります。

クレヨンは顔料と固形ワックス、クレパスはさらに液体油などを混ぜ合わせたものです。クレヨンは硬いので線描が中心になり、クレパスは柔らかいので線描だけでなく面描もできます。

江上さんは、画材を水彩から、クレヨン・クレパスに変えた理由をこんな風に語っています。

水彩には水彩としての弱さ、というんですかね

それがあるでしょ。

もう少し強い絵を描きたいというのは、ありましょうからね。」

「私も、世間でこう、美術雑誌とか見るわけでしょ。

展覧会も見に行くわけですから、その時に影響を受けたり、

『あれいいな、俺もあんな風に描きいたいな』とか、

それはやっぱり、私自身もあったわけです。

展覧会も見に行きましたし、雑誌も見ましたし。

毎月、月間雑誌をね。」

当時は、ヨーロッパ絵画も展覧会や本で見れるようになり、江上さんも油絵の魅力に惹かれていきました。

いつしか江上さんは、「水彩だと油絵のようなマチエール(質感)を出せない」という思いを持ち始めました。

水彩には水彩の良さがあって最近は大変人気ですが、絵画の歴史の中では水彩画は油絵を描く前の習作と位置付けられており、江上さんの言葉にうなづけます。

しかし、経済面から油絵の画材を購入することも、先生に油絵を習うことも叶いませんでした。

そんな時に、クレヨン・クレパスでも油絵のような作品を描けることを知り、クレヨン・クレパスに変えたようです。

私も、水彩画ーアクリル画ー油絵と変えてきましたので、そんな気持ちを良く理解できます。

ちなみにクレヨンとクレパスを詳しく知りたい方はこちらを。

写真でわかるクレヨン・クレパスの違い

作品のモティーフは何?

江上さんは、旅行などで見つけた風景でなく、身近な風景を独自の感性で描き続けました。その理由をこんな風に語っています。

お金がないから、遠くへ行ったりできないんです。

『もう自分のおる所、自分の生まれた所、生きた所、

終わる所、それを描くんだ!』っていう風に。

ちょっとおかしいですけどね。

『瀟洒な(しょうしゃ)桜島を描いたり、

歩くために歩くようなところを描くなんてことはせん』

自分の生きたところを描け、という風に思いました。」

「一生懸命描きましたね。そこをね。

海岸端の、ちょっと海に近い、そのとっぱなですね。

海に近い敷地に田畑の突端、

海際ですね。そこを描きましたね。

そして、それを、どのくらい描いたか知りませんけど、

『ああ一生懸命描けばできるんだ』っていう感じを、

それを描いたとき初めて。自分に思いましたね。」

江上さんのように、「日常にある身近な風景を独自の感性で切り取って絵にし、観る人に感動を与える。」こと、それは大変難しいことです。身近な風景ですと、どうしても庶民的で平凡な絵になってしまいがちです。

何気ない身近な風景であっても、その風景によって画家の中に何かしら新鮮な心の動きや感動が呼び起こされ、画家がその印象を絵に表す。それで初めて、作品が観る人の心を揺さぶるのだと思います。

江上さんは、一生懸命描き続けることによって、自分が納得できる絵を描ける自信ができたようです。

私もいつかはこんな風にと思いながら描いているところです。少しずつではありますが、なんとなくわかってきたように思います。

壮年〜老年期
”画家・江上茂雄”

壮年期の江上さん

壮年期以降は、戦後から現代に至る時代です。

江上さんは、1972年(昭和47年)60歳で退職されていますので、江上さんが壮年期であった当時の日本は戦後の動乱〜高度成長(初期)の時代にありました。この頃は、まだ給料も大変安くて、さぞかしご苦労が多かったろうと想像できます。

江上さんが退職された昭和47年の出来事として、あの「赤軍派浅間山荘事件」が挙げられます。この事件に代表されるように、日本社会はまだまだ混乱しており発展途上にありました。

母と妻に子供4人の生計を立てるため、壮年期はまさに超多忙な毎日であったと語っています。ただ、妻の許しを得て、日曜日だけは徹底して絵を描くことに決めて、多くの作品を描きました。

しかしながら、経済的に自身の個展を開ける余裕はありませんでした。

退職後の江上さん

退職後は、大牟田から隣接する熊本県・荒尾に移ります。

そして本格的な絵画活動に入った矢先、1979年(昭和54年)67歳の時に脳血栓で2ヶ月間入院します。

退院してからは、画材をクレヨン・クレパスから水彩に切り替えています。

江上さんは、画材を変えた理由を、
「クレヨンやクレパスは力がいるんです。滑らせるだけじゃあ線は作れるけど、色はつかない。水彩は力がいらないからね」と語っています。

そして30年間にわたりほぼ毎日、1〜2時間の場所に出かけては水彩で一枚の風景画を仕上げて帰宅するという生活を送りました。

それまでは、家で描くことも多かったようですので、健康を兼ねていたのかもしれません。

97歳を迎えたとき、流石に体力が衰えたために屋外での写生を自粛しました。

しかし、その後も一人暮らしを続けながら、過去の作品をベースに木版画の制作を続けました。

福岡県大牟田市ー熊本県荒尾市
とは、こんなところ

両市ともに、三井三池炭鉱の街として発展した歴史を持ちます。荒尾市には世界文化遺産の「万田坑」があります。

両市とも有明海に面する風光明媚な街でもあります。

写真の荒尾干潟はラムサール条約登録地の干潟です。

 

”画家・江上茂雄”の作品

長い年月に渡る2万点を超える作品には、『クレヨン・クレパスと水彩という画材の違い』だけでなく、『描かれた年代による画風の違い』もみて取れます。

以下の絵は、2018年8月に吉祥寺で行われた展覧会で展示されていた風景画です。写真撮影可でしたので、気に入った作品を撮影しておきました。

江上さんの作品のほんの一端にすぎませんが、ご勘弁ください。

海の風景

空の描写が素晴らしいです。空は変化が多いためモティーフとして選びやすいものだったのかもしれません。江上さんが語る、海に近い敷地の突端というのは、こんな風景でしょうか。

”画家・江上茂雄”作品
埋め立て地の空 クレパス
”画家・江上茂雄”作品
暮れゆく空 クレパス・水彩

森の風景

古典絵画風でもあり、印象画風でもあります。光の捉え方が素晴らしいです。クレパスによる力強さが出ていますね。

”画家・江上茂雄”作品
夏陰の小道 クレパス
”画家・江上茂雄”作品
竹林・2月 クレパス

民家がある風景

硬いクレヨンで点描画のように描いた作品です。明るい色合いを好んだ時期の作品です。

”画家・江上茂雄”作品
水源地風景 クレヨン

これは、ご自宅の庭でしょうか。優しい日差しが魅力的です。
うららかな日常を感じさせてくれる絵ですね。

”画家・江上茂雄”作品

街並みの風景

ちょっと江上さんらしくない絵です。画家・佐伯祐三を気に入っていたようですので、影響を受けた時期の作品かもしれません。

”画家・江上茂雄”作品

”画家・江上茂雄”を
観れる美術館

画家・江上茂雄の作品を常設展示している美術館は見つかりませんでした。

郷里の福岡県立美術館で時々展覧会が開かれています。

吉祥寺美術館のようにスポットで開催されることもあります。

次回の展覧会を楽しみに待ちましょう。

最後に

江上さんは酒も飲まず、人づきあいも苦手で、友人もほとんどいませんでした。

また、晩年には、眼や手足も満足につかえなくなりました。

江上さんは最晩年に、晩年の生活を「精神的にもきつい状態であった」と語っています。

そんな時にも、外を歩き、風景に心を沸きたたせ、絵を描いていれば救われました。

そして、101歳で絶筆、なんとその歳で亡くなりました。

さて、画家・江上茂雄さんの偉業や生き様は、いかがでしたか。

江上さんの長寿の秘訣は、誰にも負けない絵画への想いと、膨大な数の絵画制作にあったようです。

話は変わりますが、

下のページで、哲学者・三木清が「幸福と絵画」について触れた部分を取り上げていますので、良かったらご覧ください。

幸福と絵画 哲学者三木清「人生論ノート」から読み解く

この方は日本画の大家ですが、同じく101歳絶筆の画家です。

”日本画家・奥村土牛”はこんな人 101歳絶筆の生涯とは!

ABOUT US
グランFgranf1765
第二の人生に入り、軽い仕事をしながら、風景画を描いて過ごしています。現役の時に絵画を始めてから早10年以上になります。シニアや予備軍の方々に絵画の楽しみを知っていただき、人生の楽しみを共有できればとブログを始めました。