”日本画家・東山魁夷”、
並々ならぬ風景画への熱い想いが、多くの方々に感動を与え続けています。
そんな画家の生き様とその作品背景を知りたくないですか。
画家になる決意をした少年期から精神基盤を確立した青年期のエピソードも織りまぜながら作品を説明します。
お楽しみに!
心象風景画家
”日本画家・東山魁夷”
私は現在、香川県坂出市に住んでおり、当市には「東山魁夷せとうち美術館」があります。
しかしながら、私は県外に単身赴任していたため、現役時代にはこの美術館へ行く機会がありませんでした。退職した後に、初めて美術館へ行き、東山魁夷の絵画の素晴らしさをあらためて知ったような次第です。
それ以来大ファンになり、展示替えがあるたびに美術館を訪れています。美術館では魁夷を紹介するビデオが自動放映されており、魁夷の経歴や考えなどが紹介されています。
このページを作成するにあたって、参考にさせていただきました。
東山魁夷の略歴と
画家としての精神形成
私は、画家の人生を知ることに大変興味があります。
なぜなら、心理学では人間の精神基盤は幼年時代に形成されるといわれているからです。
そのため画家の人生、特に少年時代を知ることは、絵画作品を理解するのに大変重要であると思っています。
1908年(明治41年)横浜生まれ 1999年(平成11年)90歳にて没す
少年期〜青年期の魁夷
魁夷の少年期は、大正時代です。第一次世界大戦後の戦後恐慌、関東大震災(1923)など、日本はすでに動乱の時代にありました。
そんな中で魁夷は、割りに裕福な家庭環境の下、神戸で少年時代を過ごしています。
ただ少年の魁夷は病気がちで神経質であったようです。
中学1年生の時から夏休みになると淡路島にあるお手伝いさんの実家で療養を兼ねて過ごしていました。
その頃の魁夷は、「暗い底へ落ち込んで行きそうな自己を持て余していた」という程に心を病んでおりました。
魁夷は淡路島での思い出をこう語っています。
「瀬戸内海に面したこれらの土地の、山と海の夏の日の風景は‥‥ずっと後に至るまで、私の心の奥深くに内在して、私の精神を導く要素の一つとなった」
淡路島での滞在経験は、魁夷の絵画に大きな影響を与えたようです。
そして少年期の終わりに、幾度かためらいながらも画家になる決心をします。
18歳;東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画学科に入学します。
魁夷は美術学校1年の夏に友人と10日間程、信州の旅をします。
その時の日記に次のように書いています。
「神戸という明朗な港市と瀬戸内海の優しい環境に馴染んでいた私は、山国の厳しい自然とそこに住む人々の生活に強く心を打たれた」
全く余談ですが、私は瀬戸内の香川県で育ち、信州大学へ進みました。春先の北アルプスを見た時に、同じような感慨を抱きました。🤗
さておき、魁夷はその時を振り返って、後に次のようにも述べています。
「この時の感動が基になって、その後、私を山国へ、そして北方の世界へ結びつける道が開いたのである」
そして、さらに
「父の商売が傾いて、勉学の前途にも多難なものを予感していた当時の私は、母性的な優しい慰めとは異なった精神的な強い支えを求めていたのであろう。
山国の風景はそのような私の心の願い、祈りを象徴するかに思われた。そしてこれもまた、今日に至るまで私の精神を導く大きな要素となったのである。」
23歳;東京美術学校を卒業、川端奨学金賞を受け研究科に進みます。
25歳;同上研究科を卒業し、ドイツ語を学ぶためベルリンの大学に入学します。
26歳;日独交換留学生に選ばれ、ベルリン大学哲学科美術史学部に入学します。
27歳;父危篤の知らせを受けて留学期間1年を残して帰国します。
魁夷は、ドイツでの勉学を望んだ理由を次のように記しています。
「私は少年時代から西洋の文学、美術、音楽に興味を持っていました。そしてヨーロッパ大陸の複雑な民族関係の中で発達した西洋の文化が、日本のそれよりも厳しく、激しく、知的な要素を多く持っていることに心を引かれ、それによって私の精神が鍛えられることを望んだのであります。」
さらに「また同時に私は日本の美を、日本を離れて外から眺めたいと考えた」
32歳;日本画家・川崎小虎の長女すみと結婚します。
1941年(魁夷33歳);太平洋戦争が勃発します。
37歳 ; 招集通知を受け熊本に配属されるも、1ヶ月で終戦を迎えます。
39歳;第3回帝展に『残照』を出品、特選となり政府買い上げとなります。
戦前の魁夷は、若手の有望株として注目されながらも、十分に才能を開花出来ずにおりました。
『残照』の受賞をきっかけに作者の仕事が世に知られることになります。
後述にあるように、戦争での体験が画家に大きな影響を与えたようです。
そして風景画家として立つ決意をします。
魁夷の精神基盤は、次の4つであったようです。
・神戸という明朗な港市と瀬戸内海の優しい環境
・信州の厳しい自然とそこに住む人々の生活
・ドイツでの西洋文化との触れ合い
・戦争での死の覚悟
その後の輝かしい人生は、他に託し、ここでは割愛させていただきます。
広範なモティーフの作品
魁夷は様々な風景をモチーフにしていますが、大きく次のように分類されます。
- 信州の自然
- 京都・奈良の風景
- ドイツ・北欧の風景
- 唐招提寺障壁画に伴う作品(日本各地の海岸を旅してスケッチをしています)
- その他 東北、北陸の風景など
以下に画伯の主だった作品を添付しておきます。画伯の用いた『心象風景』という言葉の意味が、よく理解できる作品ばかりです。
転機になった作品
この作品のモティーフになったのは、千葉県君津市の山間にある九十九谷展望公園からの眺望です。
代表作「道」
この作品に関して魁夷は次のように述べています。
「ただ、画面の中央を一本の道が走り、両側に草むらがあるだけの、全く単純な構図で、どこにでもある風景である。
しかし、そのために中に込めた私の思い、この作品の象徴する世界が、かえって多くの人の心に通うらしい。
誰もが自分の歩いた道としての感慨を持って見てくれるのである。」
京都の風景
魁夷はある日、作家の川端康成氏(ノーベル文学賞)から次のようにすすめられました。
「京都は今描いといていただかないとなくなります。京都のあるうちに描いておいてください」
康成は、「京都も洋館が増えるにつれて、山の見えぬ町中が増えてきた」と嘆いていました。
魁夷は康成への書簡で次のように応え、多数の京都風景を描きました。
「いつか先生が京都を今のうちだとおっしゃっておられましたが、いちど京都風景の連作を描いてみたいと思っております」
富士山の風景
魁夷か描いた富士山の風景はあまり見かけませんね。
一点だけ添付しておきます。
ドイツの風景
魁夷は、ドイツ国内の風景もたくさん描いています。
魁夷は、絵の解説にあたって、ドイツのこんな諺を引用しています。
『古い建物の無い町は、想い出の無い人間と同じである』
ドキッとするような言葉ですね。
魁夷が尋ねたドイツ・ロマンテック街道のいくつかの町を、私も訪れたことがあります。
例えばローテンブルクは世界大戦で町の40%を失いましたが、現在はまるで中世に戻ったような美しい街並みです。
まさに『人々の思いや歴史・文化が詰まった町』
魁夷が描きたい情景にぴったりの風景であったようです。
北欧の風景
魁夷は風景に人物や動物を入れることはほとんどありません。
白馬だけは気に入ったようで、たびたび登場します。
群青色とエメラルドグリーンに白馬が映えて、何か語りかけてくるように感じます。
群青色は魁夷を代表する色です。
唐招提寺障壁画に伴う作品
魁夷は唐招提寺の障壁画を描いています。
唐招提寺は鑑真和上が、唐から言語に絶する苦難の末に来朝されたことを受け、仏教徒のための最高学府として建立された寺です。
魁夷は障壁画を描くに際し、日本全国を旅して鑑真和上を表現するにふさわしい風景を探し求めました。
魁夷は「波の状態に最もふさわしい情景を見ることができたのは、北陸の能登であった」と語っています。
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魁夷の風景画への思いとは
東山魁夷は優れた文筆家でもあり、風景画に託す思いを数多く語っております。
それらは、風景画を志すものにとって大変貴重な言葉です。いくつか、ご紹介させていただきます。
「風景とはなんであろうか。私たちが風景を認識するのは、個々の目を通して心に感知することであるから、厳密な意味では、誰にも同じ風景は存在しないとも言える。ただ、人間同士の心はお互いに通じ合えるものである以上、私の風景は私たちの風景となり得る。」
「私は画家であり、風景を心に深く感得するのには、どこまでも私自身の風景感を掘り下げるより道はないのである。」
「私は人間的な感動が基底になくて、風景を美しいと見ることはありえないと信じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。‥‥風景は心の鏡である。」
「絵画は想像によっても出来上がるものでありますが、しかし自然の形を借りて表現する以上、もっとも良い状態の自然を見なければ、なかなか最後の仕上げの自分の感激をもち続けるということは難しいものであります。」
「私は清澄な風景を描きたいと思っている。汚染された、荒らされた風景が人間の心の救いであるはずがない。」
「母なる大地を、私たちはもっと清浄に保たねばならない。
なぜなら、それは生命の源泉だからである。自然と調和して生きる素朴な心が必要である。人工の楽園に生命の輝きは宿らない。」
「私が好んで描くのは、人跡未踏といった景観でなく、人間の息吹がどこかに感じられる風景が多い。
しかし、私の風景の中に人物が出てくることは、まず無いと言ってよい。その理由の一つは、私の描くのは人間の心の象徴としての風景であり、風景自体が人間の心を語っているからである。」
「人はもっと謙虚に自然を、風景を見つめるべきである。
それには旅に出て大自然に接することも必要であり、異なった風土での人々の生活を興味深く眺めるのも良いが、私たちの住んでいる近くに、例えば庭の一本の木、一枚の葉でも心を籠めて眺めれば、根源的な生の意義を感じとる場合があると思われる。」
「風景によって心の眼が開けた体験を、私は戦争の最中に得た。
自己の生命の火が間もなく確実に消えるであろうと自覚せざるを得ない状況の中で、初めて自然の風景が、充実した命ある物として眼に映った。
強い感動を受けた。‥‥自然と自己との繋がり、緊密な充足感に目覚めた。」
「私はずっと以前から、自分は生きているのではなくて、生かされていると感じる、また人生の歩みも、歩んでいるのではなくて、歩まされていると感じる。‥‥山の雲は雲自身の意思によって流れるのではなく、また、波は波自身の意志によってその音を立てているのではない。それは宇宙の根源的なものの動きにより、生命の根源からの導きによってではないでしょうか。そうであればこの私も‥‥」
※著書「日本の美を求めて」より引用
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魁夷作品を観れる美術館
魁夷は多くの作品を制作しており、しかも、その大半がリトグラフという手法で複製されて美術館に寄贈されているため、いくつかの場所で観ることが出来ます。
ネットで調べた範囲ですが、次の3ヶ所の美術館がありました。近くを旅する機会がありましたら、お立ち寄りください。
- 長野県信濃美術館 東山魁夷館
画伯は長野にゆかりのある作品を多く描いています - 市川市東山魁夷記念館
画伯が昭和20年から平成11年に逝去するまで暮らした場所です - 東山魁夷せとうち美術館
画伯の祖父が香川県坂出市の櫃石島の出身で、画伯自身もたびたび訪れていました。
最後に
シュールレアリズムの画家、ルネ・マグリットを下のページにまとめています。
このルネ・マグリットの作品は日本画の精神世界に通じるところがあるように思っています。
だからでしょうか、シュールレアリズムは日本でも大変人気がありますね。
他にもいろんなカテゴリーの投稿をしています。
ホーム画面からご確認ください。
私のyoutube動画に瀬戸内海の風景と東山魁夷せとうち美術館が登場しますので、参考までに添付しておきます。