天才ピカソの画風の変化を読み解く
六つの画風を持つピカソ!
たいていの人はピカソの絵を一度はご覧になったことがあるでしょう
しかし、熱烈なファンでもない限り、六つの画風全てを知る方は少ないでしょう。
また、ピカソがなぜそんなに画風を変えたかについても。
天才ピカソを深掘りします。
ピカソはこうして画風を変えていった
パブロ・ルイス・ピカソ 1881年 – 1973年 享年91歳
ピカソの絵には次のように6つの違った画風があります。
- 青の時代
- バラ色の時代
- キュビズムの時代
- 新個展主義の時代
- シュルレアリズム、ゲルニカの時代
- 戦後の時代
どの時代の作品も時代を超えて評価されている、素晴らしいものばかりです。
あなたは、どの時代の作品がお好みですか。
ちなみに私はバラの時代です。
この作品は東京のアーティゾン美術館が所有している「バラの時代」の作品です。
かつてブリジストン美術館(アーティゾンの前身)で初めて見た時は衝撃を受けました。F50号くらいの大きい作品でもあり、圧倒的な存在感がありました。

ピカソはなぜ画風を変え続けたのか?
ピカソは、なぜこんなに画風を変えて行ったのでしょう。
当然のことですが、ピカソが単に「飽きっぽかった」からでも、「流行を追った」からでもありません。
通常、画家はある程度成功すると、自分の得意な画風を繰り返します。
例えば、
- モネなら睡蓮
- ゴッホなら荒く渦巻く筆致
- 東山魁夷なら静かな風景
といった具合です。
しかしピカソは、自分の画風が評価され始めると、むしろそこから逃げるように次へ進みました。
ピカソの言葉です。
「私は探さない。発見するのだ。」
そうです。
ピカソは、すでにあるものを探したのではなく、未知のものを見出そうとしたのです。
彼にとって絵は完成品を作ることではなく、発見だったのです。
産みの苦しみで、大変な日々だったでしょうが、それを苦にしないだけの強さと才能を持っていたのでしょう。
なぜ画風を変えることができたのか
いくら新たなものを発見しようとしても、誰にでもできることではありません。
天才・ピカソならではの為せる業といえばそれまでですが、ここでは、あえて深掘りしたいと思います。
その理由は次の三つであると言われています。
① 圧倒的なデッサン力
後述しますが、ピカソは子供の頃から天才的な写実力を持っていました。
14~15歳の作品でさえ、驚くほどの上手さで、すでに個性の片鱗がうかがえるほどです。
つまり、写実が描けないから崩したのではなく、写実を完全に理解したうえで崩したのです。
② 失敗を恐れなかった
個展を開き、作品を販売する立場になると、どうしても「お客さんが期待する絵」が生まれます。
画家はそれに応えようとするでしょう。
しかしピカソは、「昨日の自分を壊すこと」に価値を置きました。
なので、画風を変えるたびに批判も受けています。
しかし、それでもやめないだけの確固たる信念があったのです。
③ 生涯好奇心を失わなかった
ピカソは90歳を超えても制作していました。
若い作家の作品や古典美術、アフリカ彫刻、版画、陶芸など何でも吸収しました。
時には、他の画家の模写もしています。
当然、一つの技法に閉じこもることはありませんでした。
だから変化し続けられたのです。
画風の変化を、どう受け止められたのか
ピカソは「20世紀最大の画家」と称され、マリー・ローランサンやサルバドール・ダリなどを初め、著名な画家たちに多大な影響を与え続けてきました。
その一方で、画風を変えるたびにかなり厳しい批判を受けています。その一例をご紹介します。
① 作品《アヴィニョンの娘たち》の評価
この作品を初めて見た友人の画家たちは、ほとんどが困惑したり嫌悪感を示したりしました。
ライバルだったマティスは激怒し、「これは現代絵画への侮辱だ」と表現したとも伝えられています。当時の人にとっては、
- 女性の身体が歪んでいる
- 遠近法が壊れている
- 顔がアフリカの仮面のよう
- まるで未完成に見える
という、理解不能な絵だったのです。

さらに興味深いのは、この作品はあまりに評判が悪く、完成後もしばらく公に展示されませんでした。友人たちですら「ショックを受けた」「当惑した」と記録されています。
② キュビスムの評価
例えば作品《ヴァイオリン》では、「何が描いてあるのかわからない」という批判が殺到しました。
当時の一般人から見れば、「下手なのか?」、「ふざけているのか?」という印象だったでしょう。
しかしピカソは、「人間は物を一方向からだけ見ているわけではない」と考え、一つの画面に複数の視点を同時に表そうとしたのです。

③ 晩年の作品への評価
70代以降の作品は、
- 子供の落書きみたいだ
- 若い頃より下手になった
- ただ勢いで描いている
と酷評する評論家もいました。
ピカソ自身もこのような評価を受けることを、予想していたはずです。
ところが今日では、その自由奔放な表現こそが現代美術への大きな影響と評価されているのです。
ピカソの画風はこう変わっていった
子供時代から晩年までの画風の変化を振り返りながら、ピカソの発見の日々を見つめます。
子供時代のピカソ 0〜18歳
ピカソは1881年10月25日、スペイン南部の港町マラガに生まれました。
ここは、紀元前からの歴史を持つ都市です。
母によると、ピカソは「言葉を覚えるより先に絵を描いていた」とのことで、幼い頃から画才を発揮していたようです。
ピカソは学校の成績こそ振るわなかったものの、画業に関しては、早熟な少年でアカデミックな技法をまたたくまに身に付けていきました。
今であれば、何か精神上の病名をつけられていたかも知れません。
1891年(10歳)ピカソは父の仕事の関係でガルシア地方の都市ラ・コルーニャに引っ越します。
翌年、当地の美術学校に入学、デッサンや水彩・油彩の技法を本格的に学び始めます。
下の作品はピカソが14歳、美術学校で最後の数ヶ月間に描かれた肖像画です。
この作品は、ピカソにとって非常に思い出の強い作品であったようで、この初期作品を晩年まで手放さず、大切に手元に保管しています。
正面から捉えられた質素な身なりの少女は、顔の描写にぎこちなさが残るものの、まっすぐ見つめる視線に堂々たる存在感を感じさせます。
すでに、青の時代を予感させるような絵ですね。
実はこの年にピカソの妹がジフテリアにかかって亡くなっています。
以降、妹の死はピカソ作品の底流に流れ続けることになります。

青の時代 19〜22歳
ピカソは19歳の時にパリを訪れ、その後も何度かパリに滞在しています。
当時のパリ画壇の主流は、印象派の時代からナビ派、象徴主義へと移っている頃でした。
いわゆる、人間の内面に目を向けていた時代です。
この時代のピカソは、作品を青い一色で塗り上げるようになります。
きっかけは、直接的には友人の自殺であったとされています。
この時代には、物乞いや売春婦、社会の底辺に押し込められた弱者たちに視線を向けた、感傷的に青一色で描き出しています。
ピカソ自らの貧困を重ね合わせながら、人生の悲哀や絶望の中でも失われていない尊厳を描き出したのです。

バラ色の時代 23〜25歳
ピカソは、モンマルトルの丘の中腹「洗濯船」と呼ばれる建物にアトリエを構えました。
当時は極貧そのものの生活でした。
ここにはピカソだけでなく、ジョルジュ・ブラック、モディリアーニといった多くの芸術家、あるいは詩人たちが住みついていました。
ここでの暮らしは、画材どころか、その日の食事にも事欠く有り様でしたが、活気に溢れていました。
やがて、フェルナンド・オリヴィエと知り合い、生活を共にするようになります。ピカソはオリヴィエの肖像画を60点以上描いています。
そんな暮らしの中で、ピカソが描く画面は明るさを取り戻していくいきました。
次第に硬い輪郭線が消え、筆遣いが自由闊達に、しかも青い一色だった色彩が豊かになりました。そして悲観主義的な主題も少しずつ優しさに包まれるようになっていったのです。
一方、この時期は、サーカスに、友人たちと足しげく通った時期でもあります。
サーカスの時代と呼ばれるほどに、アルルカンやピエロを集中的に描いています。

キュビズムの時代 26〜35歳
26歳頃のピカソは、画廊を通して、あるいは直接、コレクターへ作品を売ることができるようになり、安定した生活を送れるようになっていました。
しかし、ピカソはこうしたささやかな芸術的、経済的成功には満足していませんでした。
やがてピカソは「自然を円錐、円筒、球体によって処理する」と言うセザンヌの言葉をより徹底的に実践することになります。
「伝統的な線遠近法を排除し、画面の平面性を保持したまま、3次元の事物をどう描き出すか」を追い求めていくようになるのです。
ピカソがたどり着いたのは、「事物を幾何学的な細かい断面に分解してモザイクのように組み合わせていく」と言う方法でした。
対象は、バラバラに破壊・分解され、再構成されました。
色彩や光は抑制されて、線と面による画面の構築に主眼が置かれました。
こうしたやり方は、分析的キュビズムと呼ばれます。
ピカソにとってキュビズムの時代は、洗濯船での極貧生活の終わりを意味しています。作品の値段は高騰し、28歳でクリシー大通りの豪華な部屋に引っ越したのです。
しかし、キュビズムで描かれた画面は、いつしか何が描かれているのかさえ読み取ることが困難なものになっていました。
そこでピカソは、完全な抽象に陥ることを避け、パピエ・コレやコラージュといった手法によって、新聞紙や壁紙などを画面の中に持ち込み、現実との接点を模索するようになります。
パピエ・コレはフランス語で「貼りつけられた紙」を意味します。紙片(新聞紙・雑誌や包装紙、壁紙など)、木片、写真などをキャンヴァスなどにのりで貼りつけたり、ピンで留めたりする技法です。
コラージュ(Collage)とは、フランス語で「糊(のり)付け」を意味する言葉「coller」に由来し、写真、雑誌・新聞の切り抜き、布、ステッカー、文字などのさまざまな素材を自由に組み合わせて1つの平面作品に貼り上げる芸術技法およびその作品のことです。
こうして総合的キュビズムと言われる新たな段階を迎えます。
総合的キュビズムの時代には、分析的キュビズムの時代に壁を影を潜めていた色彩が蘇っています。描かれているモチーフも新聞やフォーク、レモン、瓶、楽器など日常生活の中で見かけるものばかりになります。
難解に見えるキュビズムを親しみやすく、身近なものにしたのです。
キュビズムは絵画の分野にとどまらず、彫刻や広告、ポスターの展開にまで決定的な影響を与えました。
しかし、ピカソにとってのキュビズムの時代は、第一次世界大戦の勃発によって、終焉を迎えることになります。

新古典主義の時代 36〜43歳
第一次世界大戦中(1914-1918年/33-37歳)は、ピカソにも困難が降りかかりました。
恋人を失い、また多くの友人を戦争で失ったことで、生活は孤独なものとなりました。
しかも生活を保障してくれていた画商が敵国ドイツの国籍を持っていたため、フランスに戻れず、ピカソは経済的な不安にも苛まれていました。
そんなピカソには芸術的にも深刻な問題がありました。
キュビズムによる対象の解体が単なる装飾や抽象になってしまうことから、新たな道を模索していたのです。
そんな時、ピカソは「ロシアバレー団との共同制作」や「初めてのイタリア旅行」をきっかけに、古典・古代へ憧れるようになっていきます。
そして、バレエの舞台装置という分野に携わったことで、ついに古典主義へと向かっていきました。
新古典主義の時代と呼ばれるこの時代は、ピカソ本人だけでなく、フランス全土で愛国主義の機運が高まり、「秩序への復帰」が叫ばれるようになっていました。
戦争が人々に与える影響は大きいですね。

シュルレアリズム、ゲルニカの時代 44〜64歳
この時代は、ドイツやイタリアにとどまらず、ヨーロッパ全土でファシズムの脅威が次第に現実のものとなっていました。また、1929年/48歳のアメリカの大恐慌の影響がヨーロッパにも波及していた頃です。
株価は暴落し、失業者が街に溢れ、治安の悪化が顕著なものとなっていました。
ピカソは個人的な問題にも悩まされ、1935年から半年近くの間、絵筆も取れない状態に陥っていたほどでした。
このように、当時の作品には、ヨーロッパ社会全体、そしてピカソ自身が直面していた危機が反映されています。
作品では、人体が歪曲され、キュビズムによる複数の視点から見た断片が思いのままに組み合わせられるようになっていきました。
両目とも顔の両側に描かれるかと思えば、横向きの鼻が正面から見た頭部を二分したりします。人体を思いのままに破壊する暴力的な表現が、次第に激しさを増していった時代です。
この頃、ピカソはシュルレアリストたちとも交流しています。
彼らとの交流は、ピカソの心の奥底をストレートに吐き出させたのです。
ピカソのエネルギーは、「ゲルニカ」の制作で一気に爆発しました。

1936年7月/55歳、国を二分し同胞同士が殺し合ったスペイン内覧が勃発します。
スペイン共和国政府は、知識人たちを自らの陣営に取り込むことを画策し、その一環としてピカソをプラド美術館名誉館長に任命します。
ピカソはこの時パリ万博の共和国パビリオンのために壁画制作の依頼を受けました。
そうした折、「ドイツとイタリアの空軍が古都ゲルニカを爆撃」との報道に接し、直ちに「ゲルニカ」を制作しました。
しかし会場に飾られた「ゲルニカ」は賛辞を受けるどころか、依頼主である共和国政府の政治家からも「反社会的で馬鹿げた絵画」であると批判されました。
万博終了後には、作品はヨーロッパ諸国を巡回し、反戦平和のシンボルとなりました。

戦後の時代 65〜91歳
ピカソの晩年は、世界的な名声に彩られたものでした。
それとは逆にピカソ自身は、芸術の革新から遠く身を引き、公の場からも遠ざかっていくようになります。
南仏の地で、家族や友人たちと過ごしながら、最晩年に至るまで精力的な制作を続けました。
驚異的なスピードで、作品を制作し続けただけでなく、80から90代と言う年齢で男女の性愛をも主題としました。晩年になっても若く精力に満ち溢れていました。
ピカソは1973年4月8日、91年の生涯を閉じました。
ピカソの最晩年の言葉です。
「この年になって、やっと子供らしい絵が描けるようになった。」

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最後に
この文章をまとめながら、絵をたしなむ私自身、改めてピカソの偉大さに気付かされました。
ピカソは私が20歳の時に亡くなっていますので、サルバドール・ダリ同様、割りに身近な存在でした。
こんなすごい方々と同じ時代に生きられて幸せです。
ピカソの言葉です。
「何ができるか正確にわかっているなら、どうしてそれをやる必要があるのだろう」
ピカソ発見の人生を象徴する言葉ですね。
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ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
こんな風に、他にもいろんな画家や作品を紹介しています。
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