画家”アンドリュー・ワイエス”
20世紀アメリカ最大の名作「クリスティーナの世界」など、多くの名作を遺した画家です。
彼の美の原点を知りたくないですか?
ワイエスは、力強く生きる移民達の姿に美しいアメリカの風景を重ねました。
人生と作品を辿っていきます。
移民の国アメリカに生きた”アンドリュー・ワイエス”
まず、下の絵をご覧ください。
この絵はワイエスの作品『クリスティーナの世界』です。
残念ながら部分的な切り抜きですが、それでも迫力があるでしょ。
ワイエスは自身の絵画への思いを、晩年に次のように語っています。
- 「アメリカとは何か」を示したかった
- 「人生で困難な状況に置かれた人々がそれをどう乗り越えていくか」を描きたかった
ワイエスはアメリカの風土を愛し、その人々を深く愛しました。
だからこそ、ワイエスはアメリカの本質を描きえたのではないでしょうか。

< 参考文献 >
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アメリカの風土と時代背景
ワイエスは1917年にペンシルバニア州のチャッズ・フォードに生まれ、育ちました。
ワイエスは、2009年に91歳で亡くなるまでチャッズ・フォードと別荘のあるメイン州クッシング以外にはほとんど旅行にも行かなかったようです。
ペンシルバニア州チャッズ・フォードとメイン州クッシングの風土と、そこで出会った人達はワイエスの絵画に大きな影響を与えています。

出身地の
チャッズ・フォード
ペンシルバニア州チャッズ・フォードは、ワイエスが生まれ、育った場所です。
冬は寒く、夏は雨が多い森林地帯です。冬は-10℃以下になるようです。緯度上では日本の東北辺りです。
住居の周辺は緩やかな丘陵が続く緑豊かな地でした。
住民は、ヨーロッパ系、特にドイツ系移民を祖先に持つ人が多く、クエーカー教徒も大勢いたそうです。
クエーカー教とは、キリスト教プロテスタントの一派で 、教会の制度化・儀式化に反対し、霊的体験を重んじる宗教です。この派の人びとが神秘体験にあって身を震わせる(quake)ことからクエーカー(震える人)と俗称されるようになりました。
また、リトルアフリカと呼ばれるアフリカ出身者のコミュニティも近くにありました。
このように、さまざまな移民が作り上げたアメリカではありますが、ご存じのように全ての人が平等ではありませんでした。
主流のイギリス系移民と違って、特に先のようなマイナーな人々は後述のような時代背景の中で厳しい生活を余儀なくされただろうと容易に想像できます。
ワイエスは、子供の頃は一人で遊ぶことが多く、自然の中を歩き回っていました。そして、これらの人々と親しく交流しました。

別荘があったクッシング
ワイエスの父は著名なイラストレーターとして成功を収めていたため、夏の間はメイン州のポートクライドという小さな港町の別荘で過ごしていました。
ワイエスの代になってからは、同州のクッシングにアトリエや別荘を構えて過ごしています。
メイン州はアメリカ東海岸・最北の州でカナダと国境を接しています。
イギリスからの清教徒が最初に入植したニューイングランド地方の一州です。彼らを運んだメイフラワー号は開拓精神の象徴として有名ですね。
北緯44°に位置し、日本で言えば北海道の北部にあたります。冬場はかなり厳しい気候である一方、夏場は涼しくニューヨーク近辺の人たちが避暑に訪れる場所です。
クッシングは美しい海に面する観光名所として有名ですが、ワイエスのような著名な芸術家たちの心も捉えてきました。
一度、行ってみたいですね。
幼少〜少年期のアメリカ
私は画家の子供時代に大変関心があります。それは、画家の人間形成ひいては絵画作品にも必ず大きな影響を与えているからです。ワイエスの幼少期から少年期はこんな時代でした。
1914年~1918年に第一次世界大戦があり、ワイエス・幼少〜少年期の1920年代は戦争特需による好景気で狂騒の20年代と呼ばれました。
社会、芸術・文化が華やかに発展した時代です。
しかしながら、1929年(12歳)にウオール街の大暴落によって世界恐慌が始まり、世界は一変します。
そして、1939年(22歳)には第二次世界大戦に突入して行きます。ワイエスの子供時代はアメリカのみならず世界の人々にとって波瀾万丈の時代でした。
ワイエスに影響を与えた人たち
ワイエスの作品には、次の人たちとの交わりが重要な位置を占めています。
①偉大な父親の存在
父親は有名なイラストレーターであり、画家としても成功を収めた人でした。「宝島」や「ロビンフッド」などの人気本の挿絵を描いています。
ワイエスは、5人兄弟の末っ子でした。子供の頃は病弱であったため、学校に通えず家庭教師に学んでいます。
9歳頃からは、水彩や鉛筆などで風景や空想の世界を描いていました。
ところで、父はワイエスの2人の姉には画才を認めて早くから絵の教育をしていました。
しかし、ワイエスにはそんな関心を示していませんでした。ワイエスが15歳の頃になって初めて、父は彼の作品に関心を持ち、基本から絵を教え始めます。
絵の訓練を始めた頃のワイエスは、父の教育を押し付けがましく感じて反感を覚えていたようです。
そんな気持ちを理解してか、父は彼の特性を生かして、興味のあるものから描かせています。
父は観察することの重要性を教え、まずは見たままを描かせ、次に描いた記憶によって描くことを指導しました。
目の前の対象を心でイメージして描きたいものを捉えること、単なる再現描写でなく、題材の「本質」を求めることを教えました。
時には同じ画題を数百枚も描きました。
そんな指導もあって、ワイエスは弱冠19歳でフィラデルフィアにおいて水彩画の個展を開きます。
翌年にはニューヨークのギャラリーでも個展を開いて、早くも水彩画家として名声を得るようになります。

ただ、ワイエスは父からしばしば自分の描きたい絵とは違った絵を求められることがありました。
親心とはいえ、父はワイエスに売りやすい絵を勧め、無理やり絵の構成を変えさせることがありました。
心では反発しながらも、父は偉大な存在であり、乗り越えることのできない大きな壁でした。
そんな折にワイエスが28歳の時に父が踏切事故で突然亡くなります。後年ワイエスはその時の思いを語っています。
「私は世の儚さというものに人一倍敏感である。全ては移り変わる。父の死がそう教えてくれた」
この出来事が精神的に大きな転機となり、また父から独立する契機となりました。そして、彼の作品を一層厳格で、深みのあるものに変えていきました。
この作品は、父の死後に最初に描いたものです。自らの精神状態を重ねた絵と言われていますが、圧倒的な存在感を感じます。

②聡明な妻の存在
ワイエスは23歳の時に父の反対を押し切って、聡明で美しい4歳年下のベッツィ・マール・ジェイムスと結婚します。
ベッツィとはメーン州クッシングで知り合います。
結婚後、彼女はワイエスの良き理解者、協力者として、父が担っていたワイエスのマネージャー兼プロデューサーの役割を引き継ぎます。
それによって、ワイエスは父の指導から距離をとることができました。
またベッツィはワイエスが集中して自身の描きたいものを描けるよう、環境整備に心を砕きました。
このことは、父を乗り越える一つのステップとなり、彼が本来持っていた絵画世界を花開かせていきました。
彼の重要なモデルとなったクリスティーナ・オルソンをワイエスに引き合わせたのも彼女でした。
また、作品「クリスティーナの世界」では多く習作を描いていますが、ベッツィがそのモデルになったと言われています。
本当に良き理解者、協力者を持ち、羨ましい限りです。
③ 絵のモデルとなった人たち
ワイエスは、同じ風景、同じ人達を長期にわたって繰り返し描いています。
ワイエスは、自宅のチャッズ・フォードと別荘のあるメイン州クッシング以外にはほとんど行かなかったので、作品の多くは、それらの場所の風景とそこで暮らす人々をモティーフにして描いています。
ワイエス自身も移民の家系ではありましたが、チャッズ・フォードでは、近隣のドイツ系移民の人達と関係を築き、頻繁にそれらの人達を描いています。
また、同様に親しく交わったアフリカ系の人達も多く描いています。少年時代のアメリカは人種差別が激しく、アフリカ系のコミュニティに白人は誰も近づかなかったようですが、彼は違っていました。
一方、メイン州のクッシングでは、別荘近くのオルソンハウスにアトリエを構えて絵を描いています。
オルソンハウスは元は船乗りたちの宿でしたが、当時はオルソン家の兄弟が住んでいました。ワイエスは姉のクリスティーナ(上述)と弟のアルヴァロを頻繁に描いています。
クリスティーナはシャルコー・マリー・トゥース病で足が不自由でした。聞き慣れない病名ですが、現在では難病に指定されています。
ただし彼女は、身体に障害を持ちながらも、なんでも自分の力でやってのける強い生命力を持っていました。
ワイエスはそのことに感動し、30年に渡って彼女を描き続けました。
作品「クリスティーナの世界」は、足の不自由なクリスティーナが丘を這って家に帰るシーンを絵にしたものです。
ワイエスはある日この光景を見届け、大きな衝撃を受けて描きました。
通常、人物画の場合には、表情で感情を描き表しますが、この絵では正面でなく背後からの姿とし、人物を風景に重ねてドラマ化しています。
そして、ワイエスはクリスティーナの後ろ姿、特に手に表情を持たせることで、観たものが自分なりの解釈でクリスティーナの心を感じ取れるようにしています。
ワイエスは、この作品の、特に手指の表現のために数多くの習作を残しています。
ワイエスがオルソン家を初めて訪れたのは、ベッツィ(妻)と初めて会った日のことでした。
ベッツィは自分が親しくしているクリスティーナとアルヴァロをワイエスに紹介し、ワイエスがどんな反応を示すかで彼の人となりを見ようとしました。
その時、ワイエスもクリスティーナもお互いを気に入り、この日以来、ベッツィはもちろんオルソン家との長い親交が始まりました。
ワイエスは、オルソンハウスを人物を入れずに描くこともありました。
人物を描いてはいませんが、クリスチーナの存在を感じるように人の気配を描くことで、クリスティーナたちが力強く生きた証を描きました。
風景画を描くものにとっては大変参考になります。

ワイエスは、知っている人、中でも人間性を良く知った人々を繰り返し描いています。
多種の人種からなるアメリカで、差別もあった時代でしたが、それらの人々を同じ人間、尊敬に値する存在とみなし作品のテーマにしました。だから、観ている我々にとっても、絵の人物にどこか尊厳を感じるのでしょう。
下の絵は、ペンシルバニアの人々が雪の丘でメイ(5月)・ポールを中心に輪になり、豊穣を願って踊っている作品です。
実は作品中の人は長年にわたってワイエスのモデルになった人達です。絵の制作時点ですでに亡くなっている人も含まれています。
なんと神々しいシーンでしょう。
これもワイエスを象徴する作品の一つでしょう。この絵も私のおすすめ作品です。

最後に
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ワイエスは晩年、このようにも語っています。
「物がはっきり見えるように成り、世の中の苦悩を見ることができた」
この言葉が示すように、ワイエスは「絶望と果たせぬ希望に毎日向かい合う人々」と深く触れ合い、愛し、見つめて絵にしました。
こんなことは決して誰にでも出来ることではありません。
ややもすると、他人の苦悩には目を背けてしまいがちです。
そんな彼の作品には、力強く生きている人たちの美しい姿が、その背景にはアメリカの美しい風景が描かれています。
それらは、どれも大変美しいのです。
ワイエス自身が圧倒的な精神的強さ、心の美しさを持っていたのでしょう。
それが、ワイエスの美の原点ではないでしょうか。
ワイエスは91歳でチャッズ・フォードの自宅でなくなり、クッシングのオルソンハウスの近くに埋葬されました。
ワイエスの作品が見れる動画
youtubeでワイエス絵を紹介している動画を見つけました。宜しかったら、ご覧ください。
絵画技法・テンペラ画
ワイエスは水彩画も多く残していますが、メインはテンペラ画です。
テンペラ画の技法は油彩よりも古くに始まっています。いろんなやり方がありますが、ワイエスが使った卵の黄身を使う方法が一般的です。
顔料に卵の黄身とオイルを混ぜた絵の具を作って木製パネルなどに描きます。油彩よりも乾きにくいので、時間をかけて丹念に塗り重ねますが、乾けば油彩よりも堅牢で変色しにくいと言われています。
ワイエスは油彩のコッテリした感じに馴染めず、テンペラの質感を好んでいました。また細かい描写ができることを好んだようで、草原の描写などを見るとそれが伺えます。
私も今、テンペラ画を気に入って油絵の一部に取り入れています。
youtube動画でテンペラ画が紹介されています。より深く知りたい方は、覗いてみてください。
ワイエスが観れる美術館
少しgoogleで調べましたが、日本にはワイエスの作品を常設展示している美術館は無いようです。
「丸沼芸術の森」(埼玉県)や「愛知県美術館」は、習作や水彩画を多く保有していますが、常設展示をしていないので、企画展示会を待つしかないです。
「丸沼芸術の森」は「クリスティーナの世界」のために描かれた習作を保有しています。
いずれ近いうちに展覧会が開かれるでしょうから、お近くの方は是非とも。
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私が好きな画家ばかりですが、ご勘弁ください。🤗
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