”谷内六郎”の風景画、
見た瞬間に子供の頃の感覚を鮮やかによみがえらせてくれます。
そんな絵が週刊新潮の創刊(昭和31年)から25年間に渡ってその表紙を飾りました。
こんな画家について詳しく知りたくはありませんか。
谷内の人間性や作品について、背景から追ってみます。
どうやって、こんな絵が?
“谷内六郎” おすすめ画家
”谷内六郎” 大正10年(1921)ー昭和56年(1981) 59歳で死去
私は好きな画家の生い立ちや生き様に大変興味があります。
それは、その画家の作品をより良く理解するのに不可欠だと思うからです。
”谷内六郎”の
子供~青年時代
谷内六郎が育った頃の日本
谷内は東京・渋谷区恵比寿で9人兄弟の6男として生まれます。
谷内が育った子供〜青年時代の日本はまさに波乱万丈の時代でした。
- 1920年 第一次世界大戦終結後の過剰生産が原因で戦後恐慌
- 1923年 関東大震災
- 1927年 昭和金融恐慌
- 1933年(12歳) 日本が国際連盟を脱退
- 1941年(20歳) 太平洋戦争に突入
- 1945年(23歳) 終戦
近代史の中では最も厳しい時代、家族が生き抜くだけでも大変であっただろうと、容易に想像できます。
そんな頃に、子供時代〜青年時代を過ごしています。
子供時代の谷内六郎
谷内は、子供の頃は、まだ自然が豊かだった東京世田谷で過ごしています。
谷内はこのように語っています。
『眩いばかりの緑の地帯、すぐそばに小川が流れ、メダカでもどじょうでもうんざりするほどいた』
しかし尋常小学校の2年性の頃に喘息に悩まされるようになります。
『学校も休みがちで、ただぼんやりと憂鬱な思い出しか残っておりません』(谷内)
それでも、尋常高等小学校を卒業すると、14歳で見習い工員として町工場で働き始めます。
そこは小さな小さな電球工場でした。
『クリスマス電球を作った思い出が忘れられない。タングステンのところに天使の人形が封じ込んである、大変手のこんだ電球でした』(谷内)
作品 「虹色のタングステン」
しかし、持病の喘息の発作が出るたびに工場を休むしかなく、町工場を転々としなければなりませんでした。
谷内の絵には、「子供が感じる不安な気持ちが幻影となって現れる」、そんな絵が多くあると言われています。
実際、谷内は自身の少年時代を次の言葉で総括しています。
『僕の少年時代は何か影のような孤独がつきまとう、現実を離れた空白に住んでいた』
現在と違って大変厳しい時代背景、そして持病。
子供であろうとも相当に生きる辛さ・苦しみを味わっていたことでしょう。
青年時代の谷内六郎
谷内は、戦争中は軍の工場に徴用されており、23歳の時に終戦を迎えます。
戦後は喘息に悩まされながらも漫画を精力的に発表し、独自の絵も描くようになっていました。
しかし昭和25年(29歳)に喘息が悪化して入院します。以後、数年間に渡って闘病生活を余儀なくされます。
谷内は毎日の注射を克明に記録していたそうで、その記録が残されています。
『1年のうちほとんど毎日注射する状態で、1回の発作で15日くらいは昼夜ぶっ通しで注射していました。そのため、大抵、看護する人が悲鳴をあげました』
その間も病状が少し良くなると、兄弟が営む「ろうけつ染の工場」で働きながら、漫画や絵の制作に打ち込みました。
”谷内六郎”と週刊新潮
表紙絵の出会い
そして、昭和30年(34歳)、谷内に突如脚光を浴びる時がやってきます。
描きためていた絵が文芸春秋漫画賞を受賞し、初めて画集が出版されたのです。
それだけではありません。
なんと、翌年(昭和31年)からの週刊新潮発行に当たって、その表紙絵を描く画家に抜擢されたのです。
以来、表紙絵を描き続け、谷内が亡くなるまで25年間にわたり続けられました。
谷内が表紙絵を描いた時期は、日本がちょうど高度成長を遂げる時代と重なっています。
高速道路や鉄道などの社会インフラが続々と建設される一方で、集団就職などで都会に人々が集中し、地方の村々は過疎化が進んでいきました。
1950年代には各地で公害が問題化していました。
古き時代、社会が急速に失われつつある時代だったと言えます。
私は昭和28年生まれですので、この頃を見ながら育った一人です。
”谷内六郎”の風景画作品
谷内六郎が使った絵の具
谷内六郎は、普通はサクラ絵の具(水彩絵の具)を使っていたそうです
厚紙に、水彩絵の具を油彩の様に厚めに塗っています。
ざらざらした砂浜を表現するために、水彩に砂を混ぜたり、 藁をまぜたり 時にはろうけつ染めに彩色したりと様々な工夫をしています。
板に油彩で描くこともあったようです。
様々な画材や描き方で制作していますが、高価な画材ではなく 安価な庶民的な画材や身の回りのものを使って描いていました。
残念ながら、原画をみると、ひび割れている作品を多く見受けます。油彩のためなのか、水彩絵の具のためかは分かりかねます。
サクラマット水彩
谷内が描いた材料と同じかどうかわかりかねますが、サクラマット水彩はこんな画材です。
水彩絵の具には「透明水彩」と「不透明水彩」がありますが、サクラマット水彩はその中間くらいの絵の具です。
薄く塗ると透明水彩のようにも使えるし、濃く塗ると不透明水彩のような使い方もできます。ただ、そこまで濃くはないので、一般的な不透明水彩と比べると、下の色を覆い隠す力は少ないです。色々な使い方ができるのが、学童くらいの子供にぴったり、ということのようです。
厚塗りしているためか、谷内の絵は不透明水彩(ガッシュ)で制作したように見えます。
谷内六郎の作品の特徴
谷内の絵は現実にある風景を写しとったものではありません。
どれも谷内の中で生み出された風景です。
谷内は自らの作品をこのように表現しています。
『僕の絵はじーっと浮かんでくる目の中の景色をパッと捕まえて描く絵です』
『僕は数えきらないほどの音をテーマにした絵を描いてきた。その大半の絵は郷愁に結びつく絵でした。』
『ラムネの瓶の音、ブリキ玩具の音、鉄瓶の煮える音、母が菜を刻む音、チャルメラの音、風鈴の音、ミシンの踏む音、ひぐらしの音』
『どんな些細な音でもそこからいろんなイメージを引き出しては、絵にしてきました。』
子供時代の郷愁を誘う谷内の絵、そこには子供の切実な気持ちが描き込まれています。また、谷内の絵には時代を映したものも多くあリます。
谷内は絵に必ず自らの詩を添えていますので、それを読みながら絵をみると絵に託した思いがさらに良く理解できます。
子供たちとの触れ合い
谷内六郎と家族
谷内は昭和33年(37歳)に人形作家のみちこさんと結婚します。そして長女広美と長男太郎の2人の子供に恵まれます。
谷内は、自らおもちゃを手作りして子供達と一緒に遊んでいました。
厚紙で作った「紙の人形」や「紙のポラロイドカメラ」が長女の手元に残っていました。
長女は『父は子供と遊びながらアイデアをもらっていたのでは』と語っています。
また『(私は)父の絵とともに育ったので昭和初期を体験している。知らないけど知っている』
親子ともに幸せな人生だったことでしょう。
谷内六郎と
ねむの木学園の交流
谷内は、50代になると静岡県にある障害児の施設『ねむの木学園』の子供たちと深く交流するようになります。
そして自らの詩画集「谷内六郎誌画集 ねむの木」にねむの木学園の子供たちの絵を掲載しました。
その経験を次のように語っています。
『僕自身が擁護学園に行かなくてはならないような子供時代を経験して、同じような子供の一人でも助けられるということが、何より大切なことだと思っています』
”谷内六郎”の
とりこになった人達
谷内六郎のとりこになった人たちの言葉を借りて、作品を紹介します。
詩人・池井昌樹と谷内六郎
(1953年香川県坂出市出身)
驚くことに同郷の1学年上の方でした。瀬戸内の片田舎にこんな方がいらっしゃたとは。
『(表紙絵と)出会った瞬間から1枚1枚表紙絵を切り抜いては大学ノートに貼り付けて夜な夜なそれに見惚れていました。』(池井)
池井さんは中学生の時に谷内の絵に心を奪われ、その思いが高じて詩を書き始めました。
『魂の一番奥のところに火が灯るような思い、これが味わいたくて谷内さんの絵を何度も見返しました』(池井)
作品 「電気飴」
『空に浮かんだ男の人、綿飴が雲になって浮かんでいる。表情が怖いけど懐かしい。僕が見た風景をなんでこの絵描きさんがそれを知っているのか。』
『底無し沼のようにこの絵に誘われて、いつまで経っても見飽きない。魂の一番奥のところにポット光が灯るような気持ちにさせてくれる』(池井)
「終戦の秋」と「行ってしまった子」という作品に対して、次のように語っています。
作品 「終戦の秋」
作品 「行ってしまった子」
『焼け跡のような家並みの向こうにアメリカのタバコ、暗い空の上で女の子がこちらを見てかすかに微笑んでいる』
『(谷内の絵には)悲しみという感動だけがこの画面いっぱいに溢れている。今はない、けれどどうしても欲しい、今はいない、けれどいますぐどうしても会いたい。今どうしてもそこに行きたい。そういった地団駄に溢れた思いが絵に現れる時がある』
『この絵は聞いたことのないような叫びをあげている』(池井)
作品 「工場にいた魚」
『水溜りを除いている子供たち、何か水に沈んでいる。』
『大人になって用のない、役に立たない記憶は忘れられてしまうが、谷内の中にはそれが宝のように残っていて、こういうふうに描かれる』
『役に立たないとして捨ててしまった今の人たちは、これをみてあったなと思う。それが素晴らしい。谷内でないと起こらない現象』
『この世に何の役にも立たないものがある。幼い頃にそれがないと寝られなかったものとか、薄汚れた子熊のぬいぐるみとか。そういうものを谷口は宝物として人の心に蘇らせるものがある。いわゆる共感物』
『共感物は人が人であるために一番大切なもの。谷口は声を大にせずに絶えず小さな声で囁くように一番大切なものを語り続けたと思う』(池井)
池井さんは、谷内の絵を次のように総括しています。
『谷内の莫大な絵は決して病気が描かせてはいない。病気を乗り越えようとしたその思いが描かせた』(池井)
クリエイティブディレクター
佐藤可士和と谷内六郎
(1965年東京都出身)
佐藤さんは美術大学を目指していた頃に文庫本の画集と出会って魅了されました。
作品 「風邪熱の夜」
佐藤さんは、子供の頃に経験した自身の風邪熱の経験を重ねて、この写真に感動したことを語っています。
「熱のある頭で天井や壁をみるとそれが少し歪んで見えたり、置き物が怖いものになったり。
また、親や兄弟の優しさを改めて感じたりしましたね。
そんな子供の頃を思い出させてくれます。」
佐藤さんと同様、誰でもこの絵をみると同じような気持ちになれるのではないでしょうか。
作品 「迷い子になった」
(佐藤)『迷い子になった夢を気に入っている。友達とみんなで遊んでいたのに夕方になってはっと気づくと自分だけになっていた。迷い子になったので四つ辻のどっちに行けばいいのかわからなくなった。』
『消防の道具を入れる小屋があって赤い電球が灯っている。あれって怖いんですよね』
『窓も何にもなくて、猫が猫人間のようになってこっちを見てる。木の枝が手みたいになっていて、洋服をつかんで離さない。逃げようとしても逃げれない。』
『気づいたら誰もいなくなった夢をこれまでに何度も見ている。何かに引っかかって逃れられない夢も。絵を見てると自分の不安感が蘇り、見た瞬間に子供の頃の感覚に戻してくれる』
『子供の感じていた感覚はビビットなものと思っている。すごく小さなことでもビビットにいろんなものを感じていたと思う。いつの間にかそれを忘れていってしまうが、谷内の絵は鮮やかだった感覚にバーンと戻してくれるから感動する』(佐藤)
私のお気に入りの1枚
作品 「春の終点」
私の好きな作品です。
終点のまだ先に線路を描いて遊んでいる子供の姿に何故か共感しました。
田舎育ちの私にとって電車は世界とつながる乗り物です。自分の家にも来たらいいのになんてね。
横須賀美術館
”谷内六郎”館
横須賀美術館は、谷内の原画のほぼ全てを所蔵しています。その数は1300点あまりになります。
令和3年9月25日から12月12日まで生誕100年展が開催され、初期作品から晩年まで、原画や印刷物など、約300点が展示されました。
普段は、50点ほどが展示されており、随時展示変えされます。
ちなみに当館の中庭から浦賀水道を行き交う船の風景を楽しめます。
晴れた日には房総半島を見渡すこともできます。
谷内の絵を観た後、自然の風景の中でまったりと余韻に浸れるのも素敵ですね。
価格:15,923円 |
最後の表紙絵
”谷内六郎”
谷内は昭和56年1月病気のため亡くなりました。59歳でした。
亡くなる年まで、週刊新潮の表紙を25年間欠かさず描き続けました。
谷内が生前書き残していた最後の表紙絵は、『虹を織る人』でした。
作品 「虹を織る人」(切り取り)
谷内の詩『森の中で虹は空に向かって織られています』
『子供たちは虹を織っている人を見たようです』
虹は幸運の象徴です。
「雨が降らないと虹は出ない」、すなわち虹は「辛い出来事の後にはきっと良いことがやってくる」ということわざで知られています。
私は、谷内の『子供たちは虹を織る人を見た』を、
- 子供たちは辛い出来事を乗り越えて、生きる(虹を待つ)力を身につけた。
- 自分が亡き後も大丈夫
という意味にとらえました。
まだまだやり残した思いはあったでしょうが、穏やかな気持ちで旅立っていったのではないでしょうか。
最後に
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
谷内六郎氏、知れば知るほど素敵な方でしょ。
花森安治の表紙画
花森は谷内と同じような時期に30年間、『暮らしの手帖』の表紙画を描いています。
こちらも谷内と同様に見逃せない作品ばかりです。
こちらのページで紹介していますので、是非ともご覧ください。
他にも風景画家を中心に「おすすめの人」をご紹介してきました。どの方もその作品の魅力に負けない素晴らしい方ばかりです。
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