”斎藤清とはこんな版画家”と題し、人気の版画家をご紹介します。
斎藤清画伯をご存知でしたか?
削ぎ落とされ、単純化した画伯の作品には現代的なセンスも感じられ、一目でもっと知りたくなるはずです。
画伯の素晴らしき作品とその背景となった画伯の人生に迫ります。
版画家・斎藤清の素晴らしき人生と作品
版画家・斎藤清の人生
私は画家の人生を辿るのが好きです。
なぜならそれを知ることが、より深く作品を理解できると思うからです。
少し退屈かもしれませんが、お付き合いください。
斎藤清画伯はこんな人生を歩みました。
1907年(明治40年)4月27日 -1997年(平成9年)11月14日 、享年90歳。
1907年:斎藤清は福島県会津坂下(ばんげ)町窪で生まれました。
1911年(明治44年・4歳):父親が事業に失敗し、会津を離れ北海道夕張へ移住します。
清は、小さい頃から童謡を作って雑誌に投稿したり、イラストを描くことが大好きでした。
余談ですが、私も23歳から28歳という青春の5年間、会津の下郷町に住んでいました。
ここの地下に水力発電所を造る工事に携わっていたのです。
会津は本当に雪深いところで、車が雪に埋もれて、どこにあるのかわからなくなってしまうほどでした。
休みの日に出かける時には、まず雪の中から数時間かけて車を掘り出さなければなりません。
なんとか出かけても、雪が積もった道路側溝に車輪が落ち込んだり、車のヒーターを使いすぎてバッテリー切れになったり。
雪の降らない香川県育ちの私には地獄でした。(会津の方、すみません🙇)
なので、本当に春が待ち遠しく感じたものです。
フキノトウとかタラの芽など、春の菜も美味しかったですし。
春が訪れると、嬉しくてたまりませんでした。
子供時代に経験した、「厳しい自然の光景」、また「そこに逞しく生きる人々の姿」がきっと清の目に深く焼きついていたことでしょう。
後述しますが、会津・坂下の風景は画伯の作品のメインのモティーフとなりました。

1921年(大正10年・14歳):尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出ます。
1924年(大正13年・17歳):北海道ガス小樽支店の見習い職工となります。
1927年(昭和2年・20歳):小樽、札幌の看板店で働いた後、看板店を自営。やっぱり好きな絵の仕事に関わりたかったのですね。
1929年(昭和4年・22歳):小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習い、宣伝広告業のかたわら絵画の勉強を続けます。翌年に一時上京、それが翌々年の東京移住の契機となります。
1931年(昭和6年・24歳):上京します。
その後、宣伝ポスターの仕事をしながら油絵を独学で勉強していました。
そして、いくつかの公募展に油絵作品を出品して入選を果たしています。
1936年(昭和11年・29歳):安井曽太郎の木版画『正月娘姿』にインスパイアされて、木版画の制作を始めます。

独学でしたが、同年の第5回日本版画協会展に出品し、入選しています。
初めての木版画の出品でしたが、作品『少女』で入選を果たしたのです。
以後、版画制作へ傾倒して行きました。
1936年:この年には、二・二六事件という一部の軍人によるクーデターがありました。ますます軍部の動きが加速されて、戦争へと向かっていきました。
1937年(昭和12年・30歳):故郷・会津を離れてから初めて、会津・坂下町の叔母を訪ねています。
これが、後の、会津作品制作の契機になったのでしょう。
1939年(昭和14年・32歳):油絵作品「裸婦と少女」で二科展に入選します。
1941年12月7日〜1945年9月2日:太平洋戦争。戦争中にも清は絵画活動を続けています。
1942年(昭和17年・35歳):東京銀座鳩居堂で初めての版画個展を開催し、「会津の冬」などを発表します。その叙情的な作風は注目を集めました。
1944年(昭和19年・37歳):朝日新聞社に入社し、文字・カットなどを担当するようになります。
また、同年第13回日本版画協会展に「会津の冬 坂下」を出品して同会会員となり、ついに画伯の本領が発揮され始めることになります。

1951年(昭和26年・44歳):サンパウロ・ビエンナーレに「凝視(花)」を出品して、サンパウロ日本人賞を受賞。
これは、戦後日本人初の国際展受賞であり、日本の現代版画のポテンシャルを世界へ広める出来事となりました。

1954年(昭和29年・47歳):朝日新聞社を退社して版画制作に専念します。
1952年、1955年には、アメリカで、「斎藤清と彼の仲間たち展」「現代日本版画三人展」などが開催され、ニューヨーク・タイムズで絶賛されました。
この時、画伯は「アメリカ人は、私のよき理解者だ。」と語っています。
その後も、さまざまな国々で個展を開催するなど、盛んに海外と交流しています。
日本の伝統表現に、西洋の近代造形を取り入れた斎藤清オリジナルな木版画技法。
そこから誕生した数々の斎藤作品への評価は、国内よりも海外の方が先行し、いわば評価の逆輸入と言うカタチで、日本国内へ広まって行きました。
この後のご活躍については、ここでは割愛させていただきます。
晩年には、欧米に日本の伝統的木版画技法の解説、実技指導を行うなど、国際的な普及活動にも寄与しました。

1997年(平成9年・90歳):10月1日、”やないず町立斎藤清美術館”が会津に開館
同年11月14日、美術館の開館を見とどけるように会津若松市の病院で肺炎にて亡くなりました。
版画家・斉藤清の作品
斎藤清画伯は版画への想いを次のように語っています。
「芸術は一切要らぬことをせず、不要のものを省き急所を把握することにある」
斎藤作品を知る上で、この言葉に勝るものはないでしょう。
それでは、斎藤画伯の作品を次のように分類してご紹介します。
- 会津の風景作品(雪、四季折々の風景画)
- 色鮮やかでモダンな作品(猫の作品、人物画)
- 各地の風景作品(京都・奈良・パリ・鎌倉)
会津の風景作品
会津・坂下の雪の風景は画伯を代表するモティーフです。
画伯はこのように語っています。
「絵画は単純化を求められるが、版画はそれ以上にシンプルでなければ。全てを雪で覆い尽くす会津の冬は、単純化の姿そのもの。白い雪が要らないところを消して、描きたいものだけを残してくれる」
こうして、「会津の冬」シリーズなどが制作されました。
雪作品は広重の東海道五十三次をイメージさせますが、それだけでなく、画伯の潔く凛とした内面、現代的な感覚、そういったものが感じられます。
やっぱり画伯の作品の中では最も惹かれますね。
雪の風景画
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四季折々の風景画
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色彩豊かでモダンな作品
画伯は、色彩豊かでモダンな作品も数多く制作しています。
単純化されたフォルムと版木の木目を装飾的に活かした画面構成と色使いは、斎藤芸術の真髄といえます。
なかでも猫を題材とした作品に心惹かれます。
作品の多くには「凝視」というタイトルがつけられおり、とりわけ猫の目に画伯は魅せられたようです。
柔らかな姿や特徴的な仕草を的確に捉え、強調と省略を施して、ユーモアをも交えて表現しています。
おしゃれですね。
猫の作品
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人物画
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各地の風景作品
海外との交流が深まるにつれ、アメリカの友人たちは画伯にリクエストをしました。
「京都、奈良は、とても素晴らしい。Kiyoshiの描く京都、奈良を見てみたい。」と。
それまでの画伯には、各地を旅行しながら絵を描くという習慣はなく、作品のモチーフと言えば身の回りのものがほとんどでした。
これが契機となって、国内はもとより、アメリカ、メキシコ、フランス、タヒチ、アジアへスケッチに出かけ、それを作品化しています。
ただし、画伯のことですから、京都や奈良、パリを描いても、ご覧いただくように、その作品は一味違ったものでした。
京都・奈良の風景画
竹林の小道![]() |
法隆寺奈良門![]() |
京都妙心寺![]() |
京都大徳寺![]() |
パリの風景画
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鎌倉の風景画
1970年(昭和45年・63歳)から1987年(昭和62年・80歳)まで鎌倉で暮らし、鎌倉を題材とした作品を残しています。
まさに画伯の円熟期の作品です。
六月の鎌倉![]() |
甘縄神明宮![]() |
門 妙本寺![]() |
門 円覚寺![]() |
最後に
1987年 (昭和62年)、画伯は80歳で鎌倉市から会津の柳津町に転居し、ここを終の住処とし90歳で亡くなるまでを過ごしました。
その家から只見川の雄大な眺めや奥会津山系の美しい眺望を楽しむことができました。
会津を愛した画伯にとって心休まる晩年であったと想像します。
この家は現在、斎藤清アトリエ館として公開され、画伯の生前の版画制作の様子を今に伝えています。
こんな風に、他にもいろんな画家や作品を紹介しています。
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