”菱田春草の風景画と猫作品”をご覧になりましたか?
春草は37歳の若さで亡くなりましたが、日本画に西洋の遠近法や色彩を融合させた画家です。
明治期に横山大観らと共に活躍した画家で、その作品は現在も人々を惹きつけています。
春草の生涯と作品の魅力を紹介します。
菱田春草の生涯と作品の魅力
菱田春草(ひしだしゅんそう)
1874(明治7)年9月21日ー1911(明治44)年9月16日 享年37歳
春草の生涯
1874(明治7)年 長野県飯田市に生まれました 父は旧飯田藩の武士
1890(明治23)年 / 16歳 東京美術学校(元、東京芸術大学)に入学
春草は同校の第三期生で、狩野派、円山四条派、大和絵という伝統画風を学ぶとともに、写実法・遠近法など西洋絵画の新技法を習得しました。
東京美術学校とは
明治22年2月に開校した官立の専門学校であり、現在の東京芸術大学美術学部です。
絵画科・彫刻科・図案科が置かれ、日本の伝統美術の復興を目指した教育が施されました。
校長は、日本画家・文部官僚の岡倉天心、教授陣には、狩野派の橋本雅邦、狩野友信、円山四条派の川端玉章、大和絵の巨瀬小石らがいました。
1894年〜1895年 日清戦争
1895(明治28)年 /21歳 卒業制作として『寡婦と孤児』を制作
実は、卒業時にこの作品の合否判断で教授陣が大変もめました
最終的に校長・岡倉天心の裁きで見事に優秀第一席となり卒業できたというエピソードが残されています
1896(明治29)年 / 22歳 日本絵画協会の第一回日本美術院連合絵画共進会で画壇デビュー
出品した『四季山水』で銅賞を取りました
会場では、仏画や歴史人物画の大作が目を引きましたが、春草の作品は大作ではないものの高い評価を得ました
1898(明治31)年 / 24歳 結婚
1900(明治33)年 / 26歳 春草の絵画表現が「朦朧体」と呼ばれて、酷評されるようになります
「朦朧体」(もうろうたい)については後述します
1904年〜1905年 日露戦争
1903(明治36)年 / 29歳 横山大観とインドを訪問
春草らが持ち込んだ「朦朧体」表現は、西洋画から離れて独自の道を歩み始めた、現地のベンガル人画家たちに新風を吹き込みました
1904(明治37)年 / 30歳 岡倉天心に伴われ、横山大観、六角紫水とともに渡米
翌年に英国へ渡ります
米国、英国では、和洋が見事に融合した春草らの作品が好評を博し、次のように評価されました
「西洋の遠近法を完全に理解しており、簡潔で繊細な筆致でありながら移りゆく季節や時間の瞬間性を見事に切り取っている」
1906(明治39)年 / 32歳 日本美術院の五浦への移転に伴い、横山大観、下村観山らと同地に移転しました
1909(明治42)年 / 35歳 第3回文展にて作品「落葉」が最高賞を受賞
1911(明治44)年 / 37歳 腎不全と網膜症を再発し、同年9月に亡くなりました
朦朧体とは
明治時代には、時代の変化と洋風文化の流入によって、日本美術界は様々な変化が起こっていました。
そんな中、春草は日本画の更なる高みを目指して、朦朧体と呼ばれる従来にない表現に挑みました。
例えば、従来の日本画では墨で描く線が重要でした。
線描の筆捌きは一発勝負であり、集中力と熟練を要すものであるため、それは絵の精神や魂とも捉えられていました。
一方、春草らは線描をなくして、色を重ね、色の線などで表現する手法を用いました。
これらの作品に「ぼかし」を多用していることから、旧来の画家たちは、これを朦朧体と称して批判しました。
この作品「王昭君」は現在、重要文化財に登録されています。
「朦朧体」の主な特徴は、次の通りです。
- 筆捌きの妙を排除
- 洋画的な「色塗り」の手法
- 複雑な色調
- ぼかしを多用する表現
- 社会的なメッセージを含む画題
- 淡い色合い
春草 風景作品
私のお気に入りの作品をいくつかご紹介します。
これらは全て春草が天心や大観らと共に、米英を訪問した時以降の作品です。
春草がイギリスを訪問した時のヨーロッパは、ゴッホに代表される後期印象派の時代でした。
強烈な色彩や筆致に大いに関心を持ったであろうと想像できます。
春草の作品にも、遠近法に加えて、「色彩や筆致」に挑戦した様子が伺えます。
モティーフも中国絵画風から、印象画風に変わっています。
まさに新たな境地を生み出した瞬間です。
作品「春丘」明治38年 31歳頃
色合いが大変素敵な作品です。
花の部分には油絵の点描のような筆致で絵の具を重ねています。
黄緑色とピンク色は補色の関係にあり、彩度が引き立っています。
作品「風」明治39年 32歳頃
油絵のような筆触で描かれた作品です。
絵の具を重ねたり、絵の具を擦り取ったりすることで、強風に揺れる柳の葉を表現しています。
作品「夕の森」明治39年 32歳頃
赤茶色の木々には大きい筆触で濃淡をつけています。
陰の部分には目の覚めるような鮮やかな青色が配色されています。
青と空の黄色は補色の関係にあり、木々が鮮やかに浮かび上がっています。
作品「桐に小禽」明治39年 32歳頃
水墨画のように大胆に空間をとった縦長の構図ですが、色合いがとても素敵で惹かれます。
作品「春秋」明治43年 36歳頃
晩年の画風の典型例と言われる作品です。
八つ手と楓が左右に配置されて、中央に余白をとっています。
左の葉は黄色、右は緑の葉と対比させています。
色彩の対比と流れるような対角線の構図がいいでしょ。
春草 猫の作品
江戸末期から明治にかけて、当時は猫ブームでした。
浮世絵に描かれたり、招き猫になったり、歌舞伎の主題にもなりました。
現在も再び猫が人気ですね。
なので、多くの画家さんが猫をモティーフにして制作されています。
ちょっと前までは、犬が人気であったように思いますが、どうなったのでしょう。
私も、以前は犬を飼っていました。
ただ単身赴任で家を離れていたため、その犬とはあまり良い関係ではありませんでした。
犬が亡くなり、現在は捨て猫を保護して飼っています。黒猫です。
猫は飼い主と微妙な関係を保ちますし、噛む時も甘噛みなので、現在は猫好きになっています。🤗
すみません。余談でした。
ところで、春草も、次のように数多く猫の作品を遺しています。
- 「竹に猫」花を愛でる猫
- 「春日」前足を体の下に入れて、春の陽気を楽しむ白猫
- 「柿に猫」樹木から降りてくる何気ない表情の子猫
- 「黒猫」毛を逆立てて警戒する黒猫だが、視線はそらしている
- 「黒き猫」緊張し、鑑賞者に対して臨戦体制をとる黒猫
表情豊かな作品ですね。
初期の頃は可愛い猫の表情を、晩年は少し猫らしい面を表現しています。
最近は、どちらかといえば癒し系の可愛い猫の作品が多いようですが、こんな猫ちゃんの方が自然ですよね。
「竹に猫」明治33年
「春日」明治35年(左) 「柿に猫」明治43年(右)
「黒猫」明治43年(左) 「黒き猫」明治43年(右)
参考文献:別冊太陽 菱田春草(平凡社)
最後に
春草は晩年に次の言葉を残しています。
「絵も理詰めの境地を通り越して、結局は馬鹿げたところに往かねばならぬ。今自分は理屈にあう絵を描いているが、究境(くきょう:行き着くところ)は馬鹿げたところに往きたいものだ」
ピカソも晩年に、このような発言をして子供のような絵を描いていますね。
日本画に新風を吹き込んだ春草ですが、まだまだ高みを求めていたようです。
もっと長生きしてもらいたかったです。
こんな風に、これまでにいろんな画家や作品を紹介しています。
是非ともこちらを覗いてください。
他に、画材や描き方、公募展などに関するページもあります。
是非ともホーム画面をご確認ください。