シャガールの絵ではなぜ人や動物が空に浮かんでいるのか
”シャガールはこんな画家”と題して、シャガールの生涯と作品に迫ります。
「シャガールの絵では、なぜ人や動物が空に浮かんでいるのか?、なぜ顔が緑色をしているのか?」
このページを読んでいただくと、そんな疑問がかなり解消されるかと思います。
もっとシャガールを好きになりませんか。
シャガール作品が生まれた背景
マルク・シャガール 1887年 ー 1985年 享年97歳
シャガールは、現在のベラルーシでユダヤ人の家庭に生まれました。
シャガールが生まれた19世紀末から20世紀初頭には、ベラルーシ地域は世界有数のユダヤ人居住地でした。
いくつかの町には大きなユダヤ人共同体があり、地域によっては住民の3割以上がユダヤ人ということも珍しくありませんでした。
シャガールはそんな町の一つであるヴィテブスクで生まれ、育ちました。
後述しますが、シャガールと「ユダヤ教」および「ヴィテブスク」とは大変深く結びついており、シャガール作品を理解する上で避けて通れない事柄です。
なので、遠回りかもしれませんが、順に解説していきます。

シャガールが生きた時代
シャガールが生きた時代はユダヤ人にとって大変厳しい時代でした。
19世紀 ベラルーシは、ロシア帝国の支配下にあり、ポーランド分割によって編入されて以降、強力なロシア化政策を受けていました。
ロシア帝国はユダヤ人の居住を帝国の西部地域に法的に制限しました。
その結果、ベラルーシの町には多くのユダヤ人が暮らしていました。
当時、ロシア帝国内の他の地域では、激しいユダヤ人迫害(ポグロム)が多発していました。
一方、ベラルーシ・リトアニア地域では比較的にポグロムが少なく、多様な文化や宗教が寛容に受け入れられていました。
しかし、
19世紀末 ヨーロッパは、植民地獲得をめぐる競争(帝国主義)が激化し、第一次世界大戦へと向かう火種が形成されつつありました。
20世紀初頭 ヨーロッパは繁栄を謳歌する「ベルエポック」の時代を迎えていましたが、一方で、列強の対立により国際的な緊張が高まっていました。
1914年 – 1918年 第一次世界大戦
1939年 – 1945年 第二次世界大戦
こんな時代のもと、ベラルーシのユダヤ人は、以下のごとく悲惨な経験します。
- ロシア帝国時代の迫害
- 革命と内戦
- 第二次世界大戦中のナチスによる虐殺
- 戦後のソ連時代
- ソ連崩壊後のイスラエルや欧米への移住
特に第二次世界大戦は壊滅的でした。ベラルーシのユダヤ人の多くが、ホロコースト によって殺害されました。シャガールの故郷である ヴィテブスク のユダヤ人社会もほぼ消滅してしまいました。
まさに、シャガールはこの激動の時代を画家として生きたわけです。
シャガールの前半生
1887年 シャガールは1887年ロシア帝国時代の古都ヴィテブスクに生まれました。

この都には、ユダヤ人だけが制限されて暮らしていた居住地があり、この囲われた地域に生活しているユダヤ人の共同体が、彼の真の意味の故郷でした。
シャガールの家庭は、両親と9人兄弟と言う大家族で、伝統的なユダヤ教を信奉する家庭でした。
シャガールは音楽や詩に興味を持つ多感な少年でした。
シャガールの言葉です。
「私は何か特別な職業を見つけたかったが、それは空や星々から顔を背ける必要なく、私の人生の意味が知られるようなそんな仕事だった。
まさに、それこそ私の探していたことだった。
しかし私の家で芸術とか芸術家という言葉を口にするのは私だけだった。
芸術ってなんだろう。私は問いかけた。」
シャガールは少年の頃から絵画の才能を見せていて、19歳になると、母親は彼がヴィテブスクの画家イエフダ・ベンの画塾に通うことを許しました。
1907年(20歳)絵画の勉強のため、ロシアの首都ペテルブスクに出ます。
帝出芸術保護協会の美術学校に入学、成績優秀で奨学金を得るとレオン・パクストが教えていたスワンセヴァ美術学校に落ち着きました。
パクストは、ロシア・バレエの舞台装飾化として著名となる前衛的な画家で、シャガールは彼からフランスと西欧美術の薫りを吹き込まれたのでした。
1909年(22歳) 美しい娘ベラ・ローゼンフェルトに出会う。のちに妻となった人です。
彼女は、ヴィテブスクの裕福な宝石商の娘でした。そのため、いつもおしゃれな服装をしていました。
あるデートの時の彼女の白い衣服と、黒い手袋の強い印象は、画家の一生の思い出となって何度も描かれることとなります。

1910年(23歳) 帝国議会の代議士の援助を受け、パリに移ります。
シャガールは、パリへの思いを、のちに次のように語っています。
「私の芸術の光を育ててくれた土はヴィテブスクだったが、樹木が水を求めるように、私の芸術にはパリが必要だったのだ。
私が故郷を離れる理由は、それ以外にはなく、私は絵画以外において常に故郷に誠実だったと信じている。」
当時のパリではキュビズムが全盛でした。
しかし、シャガールが最も刺激を受けたのは、ルーブル美術館や展覧会や画廊で目にした、巨匠たちや同時代の画家たちの絵、そしてアトリエ(ラ・リッシュ)に世界から集まった仲間たちでした。
パリ15区にあるアトリエ兼住宅です。フランス語で蜂の巣の意味。
12角形の複雑な建物ですが、丸い筒型のミツバチの巣箱に似ていたので、そう呼ばれることとなりました。
万国博覧会(1900年)のワイン館であった重要な建物が移築され、アトリエ兼住宅として改造されました。
家賃が安かったために、この風変わりなアトリエには、スーティンやザッキン、モディリアーニ、パスキン、サンドラールなど、各国の画家や彫刻家、詩人らが集まっていました。芸術家だけでなく、レーニンのような政治亡命家までいたとのこと。楽しそう!

この建物は70年代初頭に歴史的建造物として改修され、現在も芸術家たちの住宅アトリエとして使われています。
シャーガールが交流した芸術家の中にはモディリアーニなどユダヤの民も多くいました。
彼らは等しく祖国喪失者として見なされました。
しかし、そうしたことが、むしろ反動的に彼らの国民的な、さらには民族的な強い自覚を促しました。
シャガールは、ユダヤ人であり、ヴィテブスクの出身であることを強く意識し、誇りとしていたのです。
1915年(28歳) ベラ・ローゼンフェルトと結婚
シャガールは、一旦パリから帰国してベラと結婚します。
実は、宝石商の娘・ベラと貧しい画家・シャガールとの結婚には強い反対がありました。
しかし、二人は熱烈な愛を実らせたのです。
ベラは、長くシャガール作品の代表的なモティーフでもありました。
1920年(33歳) ベラと共にモスクワに出ます。
シャガールは、リアリズム演劇の演出家として名声を得ていたアレクシス・グラノフスキーの主催する新しい国立ユダヤ劇場の柿落としに協力することになりました。
学生時代にレオン・パクストの教えを受けて以来、シャガールは舞台美術に関与し続けていましたし、妻のベラもかつては女優志願者でした。
現在も、この劇場の観客席を飾るために描かれた<ユダヤ劇場への誘い>が残されています。シャガールは、ここに彼の前半生の1大叙事詩を展開させているのです。

1930年代 世界は大戦の悲劇に突入しようとしていました。
とりわけユダヤ人迫害の流れは深刻であり、それはシャガールにも重くのしかかりました。

ここまでで、シャガールの作品を知るには十分かと思いますので、この辺までにさせていただきます。
シャガールの作品の特徴
シャガールは20世紀と言う最も多難な時代に生きました。
それゆえに、それに打ち勝つ芸術家の力が試され、その成果が高く賞賛された時代でもあります。
シャガールはピカソと共に、この時代の典型的な画家であり、また最も多作な画家でもありました。
一方で、ピカソよりも多分野にわたって活躍した芸術家とも言えます。
また、彼は多様な流派の様式や表現法を吸収しましたが、それを感じさせないところは、彼の個性の強さによるのでしょう。
シャガールとハシディズム
シャガール の世界を理解するうえで、ハシディズムはとても重要です。
ハシディズムとは、18世紀に東ヨーロッパで生まれたユダヤ教の宗教運動です。
シャガールが育ったヴィテブスク周辺にはハシディズム文化が色濃く残っていました。
簡単に言えば、「学問だけでなく、喜びと愛をもって神と結びつく」ことを重視した運動です。
18世紀の東欧のユダヤ人社会では、聖典を深く学べる一部の学者が尊敬される一方、多くの庶民は宗教的な知識を十分に持てませんでした。
そこで、ハイディズムでは「神は学者だけのものではなく、普通の人の祈りも尊い」、そして「歌や踊り、喜びの中にも神がいて、日常生活そのものが神聖である」と説かれたのです。
シャガールの絵には、
- 空を飛ぶ人
- 逆さまの家
- 楽士(ヴァイオリン弾き)
- 牛や山羊
- 結婚式
- 聖書の人物
などが夢のように現れます。
これは「神は日常の中にもいて、目に見えない世界が現実と共に存在している」というハシディズムの精神から来ているのです。
実際に、ヴィテブスクの日常では、婚礼や祭礼に音楽と舞踏やアクロバットが登場し、動物たちや子供たちが嬉々として跳ね回っていました。

シャガールとヴィテブスク
ベラルーシのユダヤ人の多くが、第二次世界大戦におけるホロコースト によって殺害されました。シャガールの故郷である ヴィテブスク のユダヤ人社会もほぼ消滅してしまいました。
現在のベラルーシにはユダヤ人共同体は残っていますが、人口は数万人規模と推定されており、国全体の人口から見ればごく少数です。主要な共同体は 首都のミンスク にあります。
シャガールが少年時代に見ていた世界、すなわち
- 黒い服を着たラビ
- イディッシュ語が飛び交う市場
- ヴァイオリン弾き
- 安息日の灯り
- ユダヤ人の結婚式
といった東欧ユダヤ文化の風景は、現在のベラルーシではほとんど失われてしまいました。
なので、シャガールの絵は貴重な記録でもあります。
彼は単に幻想的な絵を描いたのではなく、故郷のユダヤ人社会の記憶を、夢のような形で絵の中に残したのです。

シャガールの絵の特徴
1.空を飛ぶ人たち
シャガールの絵では、恋人たちが空を飛ぶことがよくあります。
代表作の< 街の上>でや< 誕生日> では、恋人たちがふわりと宙に浮いています。
これは物理的な飛行ではなく、「幸せで心が舞い上がる」という感覚をそのまま絵にしたものと考えられています。
日本語でも「有頂天になる」と言いますが、シャガールはその比喩を本当に描いてしまった画家とも言えます。
喜びや愛情が重力を超えたのです。

2. 故郷の記憶
シャガールは故郷の ヴィテブスク を何度も描きました。
しかし、それは実際の風景ではありません。
故郷を離れ、パリ、ロシア革命、亡命、戦争を経験した後の「心の中のヴィテブスク」です。
記憶の中では、大きかったものが小さくなったり、遠かったものが近くなったり、人が空を飛んだりします。
つまり、シャガールの絵は現実の風景ではなく、記憶や感情の風景なのです。

3. ハシディズムの影響
ハシディズムでは、「物質世界と霊的世界は切り離されていない」と考えます。
神への祈りや喜びによって魂が高揚し、天へ近づくという感覚があります。
そのためシャガールの浮遊する人物は、夢、愛、信仰、魂を象徴しているとも解釈されます。

4. 現実を超えた真実
シャガールは写実的な画家にもなれましたが、あえてそうしませんでした。
彼は、「目で見た世界よりも、心に残った世界の方が真実だ」と考えていたようです。
だから人物は飛び、牛は緑になり、家は傾き、空は赤くなる。
それでも見る人は、「何か分かる」と感じます。それほど違和感もありません。
シャガールは色彩画家とも称されています。
パブロ・ピカソの言葉です。
「マティスが没してから色彩を真に理解しているのは、シャガールだけになってしまった。ルノワールの後で、光に対する感覚を保持しているかはシガールだけである。」

最後に
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
シャガールはいかがでしたか。
空を飛んでいたり、青や緑の顔になっている絵の意味が、なんとなくお分かりいただけると幸いです。
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