”バルチュスはこんな画家”と題して、彼の生涯と作品に迫ります。
バルチュスは存命中にルーブル美術館に展示された数少ない画家の一人で、20世紀に活躍されたフランス人です。
なんと驚くことに、ご夫人は日本人です。
こんな画家のことをもっと知りたくはないですか。
バルチュスの生涯と作品
バルチュス(Balthus,1908年2月29日ー2001年2月18日)
本名はバルタザール・ミッシェル・クロソウスキー・ド・ローラといいます。
まず、下の絵をご覧ください。
これは、バルチュスの代表作の一点「ベンチシート上のテレーズ」です。
2019年、この作品がニューヨークのオークションにかけられ、バルチュスの作品としては過去最高額の1900万2500ドル(約21億円)で落札されました。
この絵を一目見ただけで、バルチュスの魅力に気づき、惹かれた方が多いかと思います。
バルチュス作品の魅力に迫るのは、少しお待ちいただき、
その前に、バルチュスが生きた時代背景や彼の生涯を辿っておきます。
バルチュスが生きた時代
バルチュスが生まれ、育った頃のパリは、アートの全盛期でした。
1900年から1940年までのパリは、芸術と文化が花開き、世界中から芸術家が集まる都市であり、「パリの学校(エコール・ド・パリ)」と呼ばれていました。
とはいえ、当時の世界は次のように、まさに激動の時代でした。
- 第一次世界大戦(1914-1918年)
- ナチズムの台頭と世界恐慌(1930年代)
- 第二次世界大戦(1939-1945年)
そんな中でも、1920年代・10年間のパリは大変繁栄し、「狂乱の時代」とも呼ばれていました。
背景には、第一次世界大戦に勝利し、ドイツからの多額の賠償金が見込まれたことがあります。
人々の間には、新しい意識が生まれ、新たな形の繁栄が登場していました。
マリー・ローランサンを初め、女性が台頭しはじめたのもこの頃に当たりますし、1924年にはパリに「シュールレアリズム研究所」が設立されています。
1920年代は、バルチュスのちょうど少年期に当たり、彼も大きな影響を受けたと考えられます。
それでは、バルチュスの生涯をたどりましょう。
バルチュスの生涯
1908年:パリで生まれ、幼年時代はベルリンやベルン(スイス)で過ごし、その後パリに戻りました。
両親ともに著名な画家で、父はポーランドの旧家の出身でした。
バルチュスは幼い頃から絵の才能を顕していました。
母と親密な関係にあった詩人のライナー・マリア・リルケからも、その才能を認められていました。
絵は、ほとんど独学でした。
というのも、両親は画家ピエール・ボナールなどの友人から、バルチュスを画学校に入れずに、昔の巨匠の模写をするように勧められたのでした。
なので、バルチュスはパリのルーブル美術館やイタリア・フィレンツェなどで、ひたすら古典絵画の模写をして絵を学びました。
すなわちバルチュスは、ヨーロッパ絵画の伝統から多大な啓示を受けています。
1921年(13歳):バルチュスが描いた絵に、先ほどの詩人リルケが序文をつけた挿絵本が刊行されます。
バルチュスは、ある日猫を拾い、ミツと名付け、自宅に迎え入れます。しかし、ミツは突然いなくなり、泣き濡れます。そんな、猫との触れ合いをバルチュスは40枚の絵にし、リルケが詩的に表現しました。
1934年(26歳):パリで初の個展を開催します
1937年(29歳):アントワネット・ド・ワットヴィルと最初の結婚をし、息子を儲けます。しかし後に離婚しています。
1939年(31歳):ニューヨークで個展を開催します
この当時からすでに一部では才能が認められていましたが、兵役のために活動を一時期停止しています。
バルチュス芸術が十分に開花したのは、第二次世界大戦後でした。
1941年(33歳):ピカソがバルチュスの作品「ブランジャール家の子どもたち」を購入します。
1962年(54歳): パリで開催される日本美術展の選定のために東京を訪れます。
その時に、当時20歳の井田節子(いでたせつこ)と運命的な出会いをします。
1967年(59歳): 節子と結婚します
1973年(65歳): 娘・春美が誕生します
晩年はスイスのロシェールにある山荘で暮らしました。
2001年2月(92歳):永眠します
バルチュスの作品
バルチュスは、子供のように、捉われのない眼で現実の中に新鮮な驚きや美しさを見出し、それを表現しています。
日常性の中の神秘的な現実や美を、あくまでも穏やかに、甘美に表現しています。
以前、ご紹介しましたデイビッド・ホックニーと似ているようにも感じています。
お二人ともに、私が好むタイプの画家さんです。
バルチュスの原点
バルチュスの娘・春美さんは対談の中で、「バルチュスの原点はイタリアのフレスコ画にある」と語っています。
石灰の化学反応を利用して色を載せるため、漆喰が濡れているフレッシュな間に絵画を仕上げなけれなりません。
下の絵はバルチュスが若い頃に繰り返し模写をしたピエロ・テラ・フランチェスカ(1412-1492)の作品です。
参考までに載せておきます。
バルチュスの芸術感
晩年のバルチュスは、ほとんどの現代芸術家の作品の中に内在する気まぐれな衒い(てらい)に少なからぬ嫌悪を示し、自身「芸術家」と呼ばれるのを拒否していたようです。
さらに、アクリルなどを卑しい画材と見下し、カンヴァスを入念に準備し、独自の顔料を混ぜ、アトリエの中で自然光だけを用いて絵を描いていました。
そんな彼は、自身を「職人」と称していました。
バルチュスは「ただ神のみが<創造者>なのであり、人間はそのような<創造物>の<美>を増すことを望むことができるだけだ」とも語っています。
この意見に娘の春美さんは、バルチュスとの対談において「<人間>は<存在の絶対的な他所性>を高めることによって神に『ならなければならない』それこそ<真の芸術>」だと切り返しています。
どちらも理解できます。
春美さんは、暗に「父・バルチュスは神となって<真の芸術>を生み出した」と語りたかったのではないでしょうか。
ちなみに、娘の春美さんはバルチュスから受けた最も大きな影響を「古い芸術作品や技術に敬意を払うこと、職人を褒め称えること、エゴを取り除くこと」であると語っています。
また、
「芸術作品というのは、どれだけ優れたアイデアを持っているか、どれだけ素晴らしい芸術家であるかということではなく、作品それ自体を存在させることなのです。
その実現のためには、制作者は自らの存在を消す(エゴを取り去る)べきなのです」とも!
やや難解な文章なので、皆さんの解釈にお任せしますが🤗、<真の芸術>を産む心得を説いているようです。
少女像に見るバルチュス
彼の作品はルーブル美術館に所蔵されるなど、高級芸術と見なされてきました。
しかし一方で、猥雑と評価されたこともあります。
そのため、彼の作品の評価は不安定なものに留まっています。
その理由は、彼が生涯を通じて<少女>のイメージを追求し続けたことにあります。
官能的な少女の表現は、バルチュスの最大の特徴ですが、現代の感覚を持ってしても、それらの絵にはやや危険な感覚さえ覚えます。
ただ一方で、彼の作品に素直に感動できることも確かなのです。
作品「夢見るテレーズ」1938年
私は、一瞬でこの絵に惹かれました。
痩せた少女が脚を広げて大変エロチックですが、一方で少女はまだあどけなく無頓着にも感じ取れます。
足元で食事中の良く太った猫が可愛いですね。
「猥雑さ」と「可愛さ」のアンバランスが魅力ですし、色合いも素敵です。
私にとっては、バルチュスの中で最高傑作です。
この作品は、人間の奥深いところにある、見てはいけない本質を『穏やかに甘美に』表現していると感じています。
『子供のように、捉われのない眼で新鮮な驚きや美しさを見出す』ことが必要なのでしょう。
まるで時間を止めて眺めているようにも感じませんか。
作品「白いシャツを着た少女」1955
こちらは少女のヌードです。
ストレートな髪、化粧っけのない顔、ふっくらした頬に幼さを感じますが、一方で大胆に胸をはだけ体は大人のそれです。
白いシャツにも清楚と猥雑が入り混じって感じ取れます。
危険な美しさですね。
風景画とバルチュス
彼の風景画は、超現実主義(シュールレアリズム)のようなイメージです。
確かに、彼は時間に着目していますので、シュールレアリズムの画家であるとも言えます。
しかし、彼の取り上げるモティーフはあくまでも日常の風景です。
サルバドール・ダリやルネ・マグリットとは一線を画しています。
作品「街路」1933
この作品は『時間が止まった街路』を描いた作品です。
このような時間性は、彼の絵画全般の特徴と捉えられています。
他の作品もそんな目で眺めると、違って見えてきます。
作品「山」1933
作品「地中海の猫」1949
作品「コルメス・サンタンドレ小路」1952-54
作品「窓辺の少女」1955
これも好きな作品です。
「美しい自然の風景」と「室内の壁の汚れ」の対比に惹かれました。
だらしなく片足を椅子の上に置いた少女にも惹かれます。
こんな絵を描きたいものです。
作品「樹木のある大きな風景」1955
作品「農場」1959-60
※ユリイカ2014年4月号のバルチュスのページを参考にさせていただきました。
最後に
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
いかがでしたか?
素晴らしい画家でしょ!
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