”クリムトはこんな画家”と題し、クリムトの生涯と絵画をたどりました。
クリムト独特の金箔を使った絵には、装飾的な美しさが際立ちます。
それらの作品には人間の精神的な深みや感情も鋭く表現されています。
そんな画家が描いた風景画をご存知ですか?これも必見です!
目次
クリムトの生涯とその絵画とは!
グスタフ・クリムト 1862-1918
金箔を使った革新的表現で、一世を風靡したオーストリアの画家です。
没後100年を過ぎ、その唯一無二の世界観に改めて注目が集まっています。
クリムトは革新的ゆえの厳しい批判を意に介せず、今までの美術の世界を打破して、あくまでも自由に、自分がやりたいものや新しい描き方を追求した画家です。
そんな画家を知るために、まず画家が活躍した場所と時代から見ていきましょう。
クリムトが活躍した場所と時代
クリムトは当時のオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれ、ウィーンで活躍した画家です。
ウィーンといえば「音楽の都」として有名です。18世紀末から19世紀初頭にかけて、モーツアルト、ベートベン、シューベルトが活躍した町です。
クリムトが生まれたのはもう少し後の19世紀末。
クリムトが生きた時代はハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の末期から第一次世界大戦の時代です。
その頃のウィーンは「世紀末ウィーン」と呼ばれ、史上稀に見る、文化の爛熟期でありました。
当時のウィーンは、ロンドンやパリに次ぐヨーロッパ第三の都市でした。
町には環状道路(リングシュトラーセ)が建設され、市庁舎、帝国議会、大学、美術館、博物館、劇場などの多くの公共建築物が整備されました。さらに、ブルジョワ達のための豪華な建物が相次いで建設されていきました。
1973年にはウィーン万国博覧会が開催され、日本(明治政府)も初めて万国博覧会に参加しました。万博では、アフリカ、中国、日本の芸術も紹介されました。
この後、ウィーン芸術はそれらの芸術の影響を受けて更なる繁栄を遂げています。
一方で、このような文化の繁栄は「帝国が政治面で混乱・凋落し、人々の関心が文化面に向かった結果」とも言われています。
実は、このころの帝国はバブル崩壊に向かいつつある時期でした。
万博を契機に帝国が再浮上するのではという期待もあったのですが、開会早々に株価が暴落して恐慌におちいります。
「世紀末ウィーン」は、オーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦(1914-1918)で崩壊する前の閃光のような輝きといえるでしょう。
そんな文化繁栄の真っ只中で、それを牽引した一人がクリムトでした。
クリムトが画家になるまで
1862年 ウイーン郊外の、ボヘミア出身の金細工職人の家に生まれました。
1873年(11歳)
ウィーン万博が開催され、ほとんど同時にバブル経済が破綻し、オーストリアは厳しい不況に見舞われます。
クリムト家でも「クリスマスの時でもパンさえろくになかった」という状況でした。(姉の回想)
1876〜1883年(14〜21歳)
クリムトは創設間もない美術工芸学校に入学し、建築装飾などの職人を目指しました。
19歳の時には挿絵を依頼されるなど、徐々にですが確実に才能が認められつつありました。
(20歳代)同じ工芸学校で学んだ弟のエルンスト、画家のマッチュの3人でアトリエを経営していました。
1890年(28歳)
ウイーンの美術史美術館の壁画装飾を手がけます。上の写真が「アテネの守護神」、下が「古代エジプトの女性」を描いたものです。
描写力の高さで、一躍世に知られることになりました。
確かにどちらも素晴らしい出来です。
1894(32歳)
政府からウイーン大学講堂に学問をテーマにした天井画の注文を受けます。クリムトは「医学」、「哲学」、「法学」を依頼されました。
この注文に対し、クリムトは型破りな表現を提示しました。
例えば、「医学」では、「病的な人間たちと死を意味する頭蓋骨」で構成しました。それは、医学そのものを否定するかのような、死のイメージであったため、画壇から大きく批判されました。
このことは大きなスキャンダルとなり、順風満帆であったクリムトにとって人生を一変させる辛い経験になりました。
この時、クリムトは次のように語っています。
「検閲はたくさんだ。誰にも隷属するわけにはいかない。私は戦わなければならない」
反骨精神に燃えるクリムトは、その後も新しい画風を追求していくことになります。
1897年(35歳)
ウイーン分離派を結成し、クリムトが初代会長に就任します。
”分離”とは芸術における伝統主義、権威主義、アカデミスム、マンネリズムからの分離、脱皮を意味しています。
分離派の拠点として建てられた「分離派館」には「時代にはその時代の芸術を 芸術には自由を」という言葉が金文字で刻まれています。
ちなみに分離派が結成されるまでウィーン美術会を牛耳っていたのはキュンストラー・ハウス(芸術の家)と呼ばれる組織で、クリムトも当初はそのメンバーでした。
分離派の誕生は、閉塞感が漂いつつある帝国において、時代の流れでもあったのでしょう。
クリムトの絵画作品
クリムトの作品の多くは、肖像画や神話的な作品です。それらに共通しているのは、女性が主役だと言うことです。
そしてクリムトが生涯に残した作品は220点あまりと言われています。そのうちの50点ほどが風景画です。
代表的な作品を取り上げます。
黄金様式時代の作品
1900-1910(38歳〜48歳)
金箔を多用した「黄金様式」はクリムトを象徴する表現様式です。工芸を学んだクリムトだからこそ生まれたのかもしれません。
クリムトがなぜこの表現に至ったのか、画家の真意を伝える資料はほとんど残っていません。
クリムトはこのように述べています。
「私のことが知りたいと思う人は、私の絵を丹念に注意深く見てほしい」
「私が何者で何を求めているのか、絵から知るように努めてほしい」
次の作品「接吻」は黄金様式の代表作です。
「接吻」1907-1908
花々が咲き乱れる断崖絶壁で恍惚の表情を浮かべる女性とキスをする男性を描いています。
この時代、愛というテーマは神話の一場面として描かれることが多く、人間の性愛を赤裸々に描くことはタブーとされていました。
自由に好きな相手を決めて結婚することが許されなかった時代であり、クリムト以前には愛し合う姿を描く絵は全くないのです。
そのため、当時の人々にとっては非常に衝撃的な作品であったと想像できます。
そんなクリムトは私生活でも、結婚をせずに型破りな生活を貫いていました。
アトリエには裸同然の女性を何人も待機させ、彼女たちとの間に少なくとも14人の子供をもうけたと言われています。
愛や性は隠すべきという保守的な世間に対して、反抗するように行動していました。
そんな彼だから生み出せた作品とも言えます。
この絵では、顔と手以外ほぼ全体に金箔が持ちいられています。それはどのような効果をもたらせているのでしょう。
金箔とクリムト
クリムトの絵の中で金箔はどのような効果をもたらしているのでしょうか。
また、どんな技法を用いているのでしょうか。
著名なお二人がクリムトの絵の金箔について解説されています。
女子美術大学教授・坂田勝亮さん
金というものは光輝くので、人の目を惹きつける効果がある。そのため光輝く二人が愛し合っている姿がより強く感じられる。
箔画作家・野口琢郎さん
- 箔の使い方が日本の昔からの表現に近い。
- 金箔は貼り方によって、その輝きに差をつけることができる。
- 金箔は平面のまま貼ると光が当たった時、最も強く輝く、細かくすれば、その輝きは弱まる。(粉末にした金箔を散らす砂子技法)
- 人物の付近が強く光輝くように押してあり、背景は砂子技法を用いて反射の弱い処理をしている。結果として遠近感を表現できている。
抱き合ってキスをする二人を強調するために金の表現を変えているのだろう。
「オイゲニア・プリマフェージの肖像」1913-14
豊田市美術館所蔵
真っ直ぐに前を向いた女性の眼差し、血管が透ける手首。女性は西洋の伝統的なドレスから解放され斬新な服に身を包んでいます。
描かれているのは新興のブルジョワ・銀行家の妻です。
近代化の進むウィーンで王侯貴族に代わって台頭したブルジョワ達。
彼らは伝統的な文化に対抗する、新進の芸術家たちを支援しました。
新しい時代の新しい表現を作り出すクリムトの元には、ブルジョワたちから妻の肖像画の依頼が多数寄せられました。
こうして、クリムトは斬新なドレスで着飾った女性達を次々と描きました。
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」-1907
頬を赤らめた女性、顔と毛首以外は全て金の衣装に覆い隠されてます。
ドレスには日本やエジプトから発想を得たと言われる文様などが描かれており、テキスタイルの図案的なものと人体の具象がミックスしています。
工芸をアートに昇華させた作品とも言えます。
この絵の中で生身は顔と手だけです。美しい金の甲冑で体を固めたようにも見え、一層肌の部分が艶かしく感じます。
当時のウイーンの批評家はこの絵をみて、
「この絵は「ブロッホ」というよりは「ブレッヒ」だ」と言ったそうです。
ブロッホは身体、ブレッヒはブリキだそうです。
ひどいことを言うものです。😀
クリムトとファッションデザイン
クリムトは自身でドレスのデザインもしていました。クリムトのデザインは時代の先駆けと言えるものでした。
当時、上流階級の女性の多くはウエストを極端に絞め、胸とヒップを強調するドレスを着用していました。
そんな時代にクリムトは、窮屈なドレスから女性を解放させ、個性を自由に発揮できる服を考案しました。
クリムトのファッションデザインを語るとき、恋人であったエミーリエ・フレーゲという女性の存在を欠かすことはできません。
彼女は、ブティックを経営する、当時としては珍しい女性実業家であり、時代の先端をゆく、ファッションデザイナーでもありました。
「ドイツ芸術と装飾」1907年1月号に彼女と共にクリムトがデザインしたドレス10点が掲載されています。
そのデザインは体の線を強調した従来のものとは一線をかくし、体型を覆い隠すようなゆったりとしたものでした。
晩年の作品
1911-1918(49〜56歳)
クリムトは晩年にこんな言葉を遺しています。
「若い人たちは、もはや私を理解していない」
「彼らは別の方向に進んでいる」
「彼らがそもそも私を評価しているかどうかもわからない」
その頃のヨーロッパでは、すでに抽象絵画が生まれており、ピカソ、カンディンスキー、マルクなどが注目を集めていました。
クリムトは、「時代から取り残されるようになったのでは?」と思い悩むようになっていました。
そんなクリムトは50歳に差し掛かる頃から、金箔に変わる新たな表現を模索し始めます。
「死と性」1915 晩年の傑作
個人的にはこちらの方が好きです。
花畑のような空間で、幼児から老年に至る人間が群れになってまどろむ。
そこに近づくのは十字架の衣服を纏った死神。
背景にはこれまでにない暗い色が使われています。
実は、この絵の背景は元々は金色で描かれていました。しかし、クリムトが塗り替えたのです。
周りが金ですと寒色で描かれた「死」の方が強いコントラストを持って現れます。そのため、暖色で描かれた生よりも死の方が主役になります。
クリムトは周りを黒い色にすることで生の方を引き立てました。
また、クリムトは生だけを表現するのでなく死を傍に置いています。そのことで、生と死との強い対比が生まれ、生がより強調されています。
実際の背景の色は、黒というよりもダークブルーです。果てしない宇宙空間のようなイメージを出しています。
クリムトが背景の色を変えたのは1915年、まさに第一次世界大戦(1914-1918)の最中です。
その頃のウィーンは、ブルジョワが台頭した華やかな時代から、混沌とした死と隣り合わせの時代へ移っていました。
クリムトはそんな時だからこそ、生きる尊さ描こうとしたのかもしれません。
クリムトの風景画
以上のように、クリムトは人物画で有名ですが、彼の作品のうちの約4分の1を風景画が占めていることに驚かされます。
ウイーン分離派を結成した頃にすでに風景画を描き始めており、晩年に至るまで描き続けました。
多くの人物画がブルジョアからの受注制作であったのに対し、風景画はクリムトの自発的な制作です。
批評家にいじめられ、疲れていたクリムトにとって、風景画は憩いや安らぎの場、そしてエネルギーチャージの場でもあったようです。自然に向かっている時のクリムトは、一番穏やかに絵に没頭できたのではないでしょうか。
私は風景画を見た時、クリムトの人間性がわかったような気がしました。また、先の装飾的な絵をより理解できるようになりました。
クリムトの風景画にはこんな特徴があります。
- 動物や人物がいっさい登場しない。神秘的な雰囲気をたたえた風景が多い。
- 画面が風景画でよく使われる横長でなく正方形である。横への広がりはないが、対象を空間に閉じ込めることで、見る人が自分だけの空間を見ているような感覚を与えている。
- その頃に流行り始めた点描などの技法を積極的に取り入れている。
いくつか私のお気に入りの絵を載せています。どれも自由な感性で描かれた素晴らしい作品です。
アッター湖と風景画
クリムトは1900年から1916年までの夏を、恋人エミーリエ・フレーゲと共にアッター湖畔で過ごし、風景画を制作しました。
アッター湖は、ウィーンの西方200kmほどの位置にあり、南北に20km、東西に4kmと細長く、水が大変綺麗な湖です。
「アッター湖にて」1900
風景画ではこの作品が最も好きです。
水面を大きくとった、大胆な構図が素晴らしいです。水面の色も、黄色、緑、赤紫を巧みに配置しています。
淡い色彩の中に、小さい島が唯一暗い色で強調されて幻想的です。
安らぎと不安感が同時に感じられる絵ですね。
「白樺の林」1903
この絵は秋の落ち葉の風景。白樺は落葉樹なので秋なら葉っぱが落ちているはずです。
しかし、白樺の葉は青々としていますし、右下には青い花が咲いています。
落ち葉のオレンジと木の葉っぱの青緑は反対色、またオレンジは暖色なので落ち葉が強調されて見えます。
まるで、すっくと立つ木々が人で、落ち葉が衣装のようにも感じられます。
「アッター湖畔のウンターアッハの斜面」1916
森の木々がモザイク画のように描かれています。点描のようにも見えます。
最晩年の作品だけあって、子供が描いたような自由な表現になっています。
人生を達観した美しさがあります。
「アッター湖畔ウンターアッハ教会」
これも素敵ですね。部屋に飾りたい作品です。
個々の木々や建物には立体感が乏しいですが、それらの重なりで遠近を表現しています。
いわゆる、浮世絵のような表現を取り入れています。
現実ではなく、夢の世界にいるように感じませんか!
最後に
1918年 クリムトは新たな表現を模索する中、急に病に倒れて55歳でこの世をさります。
まさに人生を生ききったと言う感じですね。ご本人(周りも?)は大変だったかもしれませんが、羨ましい人生です。
この文章をまとめるにあたって、NHKの日曜美術館と千足伸行さんの著書を参考にさせていただきました。
価格:1,980円 |
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
他にも、お気に入りの画家達をご紹介していますので、覗いてみてください。
きっと、魅力を再認識されるはずです。
Youtubeにも投稿
「風景画の旅」と言うテーマで、国内外の風景と自作絵画を動画にしてご紹介しています。
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