”松本竣介はこんな画家”と題して、夭折の画家の人生と作品を見つめます。
洋画家・松本竣介をご存知でしょうか。
子供のときに聴覚を失うも画家となり、36歳の若さで戦後間も無く亡くなった画家。
彼の作品は、冷たく透き通った空気の中に詩的な静けさをたたえています。
松本竣介の人生と作品とは
夭折の洋画家・松本竣介(1912/4/19-1948/6/8)
36歳という、あまりにも早い死でした。
私の友人に早くして亡くなった方が何人かおられますが、みなさん素晴らしい方ばかりで、人生を生き急いだような気がしています。
なので、松本竣介氏にも大変興味を持っていました。
竣介は多感な少年時代の大半を岩手ですごしています。
父は宮沢賢治と交流があり、青年・賢治は時々竣介の家を訪れることがあったといいます。
松本竣介の絵には宮沢賢治 の世界と相通ずる感性が感じられると指摘されています。
そこらへんにも惹かれる理由がありそうです。
それでは、じっくりと見つめてみましょう。
松本竣介の人生
私は画家の生涯に関心があります。
なぜなら、それが画家の作品を深く知り、楽しむことにつながるからです。
例えば、誰でも時には「どうして、こんな絵を描いたのか」と思うのでは。
そんなときに画家の人生と比較しながら作品を拝見すると、画家が絵に込めた思いや意図に気づくことがあります。
少し退屈とは思いますが、しばらくお付き合いください。
竣介の少年時代
竣介の少年時代は、彼の人生に最も大きな影響を及ぼした時期です。
1912年(明治45年、大正元年)4月19日に東京の渋谷で生まれました。兄弟は兄が一人。旧姓は佐藤俊介(この時は人ベンの俊、後に竣に)
1914年(2歳)父親がりんご酒造業に参加したのに伴い、岩手・花巻へ移ります。
さらに10歳のときに父の故郷・盛岡へ移り、少年時代を過ごしています。
小学校を首席で卒業し、中学に1番の成績で入学するほど賢い子供でありました。
1925年(13歳)盛岡中学1年生の時に聴力を失います。
中学の入学式に頭痛をおして参加したのですが、翌日に流行性脳脊髄膜炎と診断されました。
現在ではあまり耳にしない病気です。細菌伝染によるものだそうで、戦前には症例が多かったとのこと。
小児がかかりやすい病気で、突然、発熱や嘔吐が起こり、場合によっては意識障害やけいれんを起こし、最悪、死亡することもある病気です。
なんと竣介は約半年間、入院します。
無事に回復したものの、病気の影響で聴覚が失われます。
退院後、竣介は、校長の理解を得て、難聴のまま中学校へ通学します。ただし、 翌年に再度、1年生から始めます。
父は、音を失った楽しみにと、2年生のときに俊介にカメラと現像道具を買い与えます。しばらく熱中したのですが、やがて興味を失いました。
なので、今度は、油絵の道具を買い与えました。
当時にしては高価な品ばかりです。
裕福な家庭であったとはいえ、家族の深い愛情を感じます。
2年生の夏頃からはスケッチに熱中しました。
3年生の春には、盛岡市内中学生によるスケッチ競技会で彼の風景画が2等に入選します。
ただし、入選作品の裏に、こんな言葉を記していたのことで驚きます。
「この作は一つも個性というものが出ていない。 単なる自然の模写に過ぎぬ」
利発な子供だったようで、彼は、学校に絵画俱楽部まで作ったとのこと。
1929年(17歳) 中学3年生(5年制)を終えた時点で中退して、家族と共に上京します。
竣介の青年期
いよいよ画家を目指して本格的なスタートを切ります。
俊介は東京で太平洋洋画会研究所(のちに太平洋美術学校)に通い始めます。
1933年(21歳) 日本が国際連盟を脱退
この頃はまさに日本が大戦へと向かう時代、画家として立つにはさぞかし厳しい状況であったと想像します。
実際、俊介も徴兵検査を受けています。しかし幸か不幸か、耳が聞こえないことで兵役免除になっています。
1935年(23歳) 前衛グループNOVAの同人となり、二科展に出品。
作品「建物」が初入選します。
1936年 松本貞子と結婚し、松本俊介となります。
貞子との結婚は父の勧めであり、当初、松本家は反対したようです。しかし、婿養子となることで結婚に至ったとのこと。
この年の10月には、兄に資金的な援助を受け、夫婦で月刊の随筆雑誌『雑誌帳』を創刊します。
本誌には、竣介自身も多くの文章やデッサンを投稿していますが、林芙美子や森荘已池らも文章を、藤田嗣治や麻生三郎らもデッサンや口絵を投稿しています。
ただ、資金的に維持できなくなり、通巻14号で終了しています。
1937年(25歳)第一子が誕生するも、早産のために翌日に亡くなりました。
竣介の壮年期
俊介は、故郷の友人たちが世話してくれた、グラフ雑誌のカットの仕事や、美容院やカフェの壁画の仕事で生計を立てるようになっていました。
また、故郷の人などの好意で後援会が生まれ、絵を売る画会もありました。しかし、絵はあまり売れなかったようです。
1939年(27歳)長男が生まれます
1940年(28歳) 二科展で特待を受賞、銀座の日動画廊で初個展
俊介は画家になれた喜びをこう述べています。
“絵を描くことが好きでありながら、画家になる望みを一度も持たなかった僕が、十四歳の時に聴覚を失い、この道に踏み迷い十五年の迂路を経た今日、ようやく、絵画を愛し、それに生死を託することの喜びを知りえたということ。それが、今、言い得る唯一のぼくの言葉です(中略)。
1941年(昭和16年・29歳)12月7日 太平洋戦争が勃発
同年に、美術雑誌「みずゑ」に「生きている画家」という文を寄せ、俊介は、真正面からではないが、当時の国家に対し反論を試みています。
それは、軍部による言論統制が強まる中での、人間の尊厳を守ろうとする竣介の叫びでした。
この後、俊介は危険人物とみなされ、尾行がつくようになります。
1941年 盛岡のデパートで彫刻家の舟越保武と二人展を開催します。
この頃は、持てるすべてのエネルギーをぶつけるかのように制作に没頭しました。「立てる像」(後述)などの多くの代表作が描かれています。
1943年(31歳) 靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成し、第3回展まで開催します。
当時は、展覧会といえば戦争画でした。しかし、この展では風景画や人物画ばかり出品されました。
1944年(32歳)父の勧めで、俊介から竣介に改名
この年に、国が認める団体以外の展覧会を禁止したため、以後、新人会主催の展覧会を開けなくなりました。
1945年(33歳)終戦、長女が誕生
平和な時代を迎えて再び制作に没頭できるようになりましたが、 戦時中の疲労や栄養不良がたたり竣介は健康を害していました。
しかし、自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加するなど(1947年)、引き続き精力的に画家活動を行なっています。
この頃には、フランス・パリへの移住も視野に入れていたようです。
1948年(36歳)6月7日死去
5月に開催された第2回美術団体連合展のときには、体調がさらに悪化していました。同展には、人手を頼んでなんとか作品を搬入できたものの、 会期中に一度も会場を訪れないままでした。
竣介は結核を患い、心臓も弱っていて、長期の入院治療が必要とされていました。しかし、費用を工面できず、その後も自宅で療養していました。
松本竣介の作品
松本竣介は油彩画家です。
短い人生であったため、作品数はやや少ないですが、迫力ある作品をご覧ください。
戦前、大戦中、戦後の3期に分けて、作品をピックアップしています。
時期の違いによる画風の変化もお楽しみください。
戦前の作品
戦前の代表的な作品3点を取り上げました。
彼が、24歳から28歳の作品です。
この頃の作品は、どれもカラフルで、ベージュ、マゼンダ、青がよく使われています。
時代は、日本が大戦へと向かっていた頃でしたが、竣介自身にとっては、絵で立つ決意をした、そして結婚して子供ができた、充実した時期です。
そんな心の昂りを感じさせてくれるような作品です。
大戦中の作品
戦中の代表的な作品3点です。
ただし、3点とも開戦まもない頃の作品であり、これ以降の作品は数少ないようです。
戦前のカラフルさがなくなり、モノトーンの暗い作品が増えます。
戦争前には、まさに画道に邁進していた竣介。
その生活が戦争で完全に破壊されたのですから無理もありません。
この作品「立てる像」、いかがですか?いいでしょ。
竣介作品では、私の最も好きな作品です。
松本竣介の最高傑作と言っても良いのではないでしょうか。
162cmx130cmの大きな作品なので、美術館で拝見したときには圧倒されました。
戦後の作品
戦後の作品3点です。
戦後は再び精力的に画家活動を再開していましたが、それまでとは全く違う作品になっていました。
一転して、血に塗られたような暗い赤の作品ばかりになります。
戦争中に悲惨な体験をしたこと、また体を壊したことなどで、竣介の精神に大きな変化があったようです。
戦後の焼け跡の東京に立ち、竣介は次のように記しています。
竣介の精神状態を良く理解できるかと思います。
「猛火に一掃された跡のカーッとした真赤な鉄屑と瓦礫の街。それらを美しいと言うのには、その下で失われた諸々の、美しい命、愛すべき命に祈ることなしには口にすべきではないだらう。
だが、東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払ってしまった直後の街は、極限的な美しさであった。人類と人類が死闘することによって描き出された風景である」
大川美術館と松本竣介
松本竣介の作品をさらに詳しく知りたい方は、こちらをご覧ください。
当美術館の大川栄二氏(1924-2008)が美術コレクションを始めるきっかけになったのが松本竣介の作品でした。
上記の資料室では、所蔵作品や関連資料をご覧いただけます。
当館で松本竣介所蔵作品をご覧になりたい場合は、事前に当館にご確認くささい。
最後に
後に、松本禎子夫人が次のように述べています。
「皆様がたいへん(俊介を)お褒めくださるものですから、なにも知らない京子などは、”いやだ、人間じゃないみたい、神様みたい”と申すんでございますが、竣介はいたって平凡な、平凡すぎる常識人でございました。
わたくしは以前、芸術家といえば飲んだくれたり、暗い顔して悩んでいたり、女房を顧みなかったりといった人たちのことだと思っておりましたが、まるで逆で、この人ほんとに芸術家かなと思ったほどでございます。
でもやつばり竣介は挫折したのでございます。麻生さんや難波田さんなど竣介が親しくしていただいたかたたちは、いまだいい仕事をなさっておられます。
そんなかたがたの個展を拝見するにつけ感無量の思いがいたします。そして、もし竣介がまだ生きていたなら、このようなすばらしい仕事をしたろうか、ひょっとしたら絵筆をもたなくなっていたかもしれない、などと思ったりいたしまして、、、、。
竣介はやっと何かをつかみかけたところで亡くなってしまいました。中途半端で死んでしまいました。哀れでございます。」
奥様はこうおっしゃっていますが、私は人の倍くらいの太さで天真爛漫に人生を生き切ったと感じています。
竣介の「絵画を愛し、それに生死を託することの喜びを知りえた」という言葉に深く感銘しました。
こんな風に、他にもいろんな画家や作品を紹介しています。
是非ともこちらを覗いてください。
他に、画材や描き方、公募展などに関するページもあります。
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最近投稿した高島野十郎のショート動画は、Instagramで1.8万回の視聴数がありました。
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