”シスレーはこんな画家”と題して、深掘りします。
印象派を代表するモネやルノワールを知っていても、シスレーを知らない方がおられるのでは?
しかし印象派展などに行くと、たいていシスレー作品が展示されています。
このページで、あなたもシスレー通になりませんか!
シスレーの生涯と作品
アルフレッド・シスレー 1839年10月30日〜1899年1月29日/ 59歳で没す
シスレーは、印象派創立者の一人ですが、モネやルノワールに隠れて目立たない存在です。
確かに、奇抜さや新規性の面では彼らに遅れをとっており、あえて言うと、旧来のアカデミックな一面が濃く残っているように思えます。
そんなシスレーとはどんな人で、どんな時代を生き、どんな作品を残したのでしょう、
シスレーが生きた時代
シスレーが生きた19世紀後半とはどんな時代だったのでしょう。
この時代のヨーロッパでは、急速な科学技術の発展を背景にして、アジアやアフリカ諸国に対し列強による植民地支配が進んでいました。
しかし一方で、それに対する人々の反発が生まれ、やがて文化や芸術に反映されて行った時代でもあります。
さらに、1870年に普仏戦争(1870-1871)が勃発しています。
詳しくはさておき、現代風に言うとドイツーフランス戦争です。
この戦争でフランスは敗れ、900年続いた王政と決別します。
そして、これが芸術世界の様相を変えることになります。
これまで、王たちは旧来からの芸術アカデミーに好意を寄せ、芸術界とwin/winの関係を築いていました。
と言うのも、王たちは国の統治に際して、伝統芸術の権威を借りていたのです。
しかし王政が廃止されたことで、フランスに新しい芸術が台頭するための素地ができました。
そこで生まれたのが、「印象派」(1870年代〜1880年代)と呼ばれる芸術運動でした。
当時のアカデミックの主流派は、印象派を単に「奇抜な絵」と称しています。
これほど後世に影響を与えることになろうとは誰も想像だにしなかったことでしょう。
シスレーの生涯
シスレーの生涯を簡単にたどっていきます。
1839年10月30日:アルフレッド・シスレーはパリで誕生しました。
兄一人、姉二人の末っ子です。
父親のウイリアム・シスレーは織物を扱う裕福な実業家、妻のフェリシアは馬具製造人の娘でした。一家はロンドンで基礎を築き、その後パリに移りました、
シスレーは生涯の大半をパリとその近郊で過ごしました。
そんなシスレーのことを親戚の一人が次のように語っています。
「彼の芸術の本質は、朴訥なイギリスの農民らしさよりも、むしろフランスのブルジョアジー文化に起源があるように見える」
1855年/16歳:シスレーはパリにある父の事務所で働くようになります。
1857年/18歳:商業の勉強のためにロンドンに出されました。
このように、少年期のシスレーの生活についてはほとんど何も知られていません。
1860年/21歳:両親を説得して、商業を捨て絵の勉強をすることになります。
そして、シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入ります。
グレールは、若い頃にパリでの貧しい暮らしを経験していたことから、生徒たちから授業料を取りませんでした。
画塾には30名から40名の生徒が通っていましたが、1862年まで、驚くことに次の4人のずば抜けた生徒たちがいました。
- シスレー
- クロード・モネ
- フレデリック・バジール
- ピエール=オーギュスト・ルノワール
画塾時代は、ルノアールがシスレーの親友でした。
ちなみに、シスレーの学生時代の作品は1点も残っていません。
1864年25歳:グレールのアトリエが閉鎖となり、シスレーはパリを離れてフォンテーヌブローの森やマルロットで絵を描くようになります。
この頃の父親は仕事が拡大して繁盛していたため、シスレーは父親からたっぷりと資金援助を受けながら優雅に暮らしていました。
1866年27歳:シスレーは花屋の若い女性、マリー・ルイーズ・アデライード・ヴジェニー・レグーセグと出会います。
そして、翌年に息子、2年後に娘が生まれます。
しかし困ったことに、父親は二人の結婚を認めず、シスレーへの経済的な支援をやめてしまいます。
1870-1871年/31歳:普仏戦争が勃発、フランスが敗戦して王政廃止となります。
この戦争に、印象派の画家たちも巻き込まれました。
ルノワール、マネ、ドガ、バジールらが参戦し、バジールは戦死します。
モネとピサロはロンドンへ疎開しましたが、シスレー一家はパリのすぐ西側・プージヴァルの一軒家に引っ越します。
ところが戦争における首都攻囲の際に、プージヴァルも蹂躙され、シスレーは全ての財産を失います。
その中には1860年代に制作した優れた作品も含まれていました。
シスレーにとってこの戦争は個人的にも酷い災難で、この時から死に至るまで、彼は絶えず貧困と戦うことになりました。
他の印象派の創立メンバーは皆、生前にある程度の経済的成功を収めていますが、シスレーただ一人、それが叶いませんでした。
1870年-1880年/30歳-40歳:シスレー絵画の偉大な10年間
作品「シテ・デ・フルールからのモンマルトルの眺め」
作品「パリ、サン=マルタン広場」
などを制作します。
1879年/40歳:父親 ウイリアム(1799-1879)が亡くなります。
父は、普仏戦争で健康を害し、ビジネスでも不運に見舞われ、ほとんど無一文で世を去りました。
ところで、
シスレーは戦後、パリに一時期住んでいましたが、節約のためパリ近郊の町を転々としています。
- 1872年-75年:ルヴシエンヌ
- 1875年-77年:マルリ=ル・ロワ
- 1877年-80年:セーブル
これらの地で、美しい自然の風景を描きとめました。
晩年には、フォンテーヌブローの森のはずれの小さな田舎町・モレ=シュル=ロワンから動くことはなかったとされています。
彼は交際嫌いで、晩年には年と共にひどくなっていったようです。
1899年1月29日/59歳:シスレー没す
シスレーの作品
印象派とシスレー
シスレーの作品は19世紀の風景画の中で最も素晴らしいものに位置付けられ、印象派の運動でも決定的な貢献をもたらしています。
シスレーが印象派の中で親近感を抱いていたのはピサロとモネだと言われています。
ピサロは飽くことのない知識欲があり、モネは大いなる野心を持っていました。
しかし、シスレーは優しく上品な気性であったため、上述のような激しい個性を持っていませんでした。
なので、スケールの点で二人に及ばなかったと評されています。
また、シスレーはコローやクールベなど、写実主義の作例を尊重していました。
印象派絵画の特徴は次のようなものです。
- 小さく薄い作品であっても、目に見える筆のストロークを残す
- 戸外制作が基本
- 空間と時間による光の質の変化を正確に描写する
- 日常性がある対象を描く
- 斬新なアングル
シスレーが取り上げた主題
シスレーが描いたのは、主に印象主義の中心地、ルヴシエンヌ、マルリ、アルジャントゥイユ、ブージヴァルなど、パリ近郊の町の風景です。
そこには、豊かな自然やセーヌ川やロワン川の流れがありました。
シスレーは印象派の創立メンバーの中で最も旅をすることが少なかった人で、ここを離れるのは稀でした。
シスレーの心を引き立てた風景は、こんなありふれたものでした。
- 森のはずれや林間の空き地
- 地平線まで延びる道路や大通り
- 村の一隅
- 散歩したり何やら田舎での気晴らしにふけっている小さな名も知れぬ人物像
- 対岸の樹間を通して眺められた河畔の建築群
私が好きなシスレー作品
シスレーはこんな描き方をしました。
まず最初に空を描き、そして作品の構造、すなわち形式上の出発点をできるだけ単純につくり上げ、あくまでも全体が一貫した雰囲気に包まれるように配慮しました。
それでは作品を見ていきましょう。
印象的な並木の風景
シスレー作品の中では、私が最も好きな作品です。
とにかく、構図が素晴らしいです。
目線は並木の奥に向かって吸い込まれ、そこから弾けるように上に向かい、葉っぱの茂みに移ります。
本当にダイナミックですね。
印象派の特徴である、強い光も感じられます。
次は、川辺の並木です。
オレンジと緑は反対色なので、うまく引き立てあっています。
視点は、右の茂みから始まり、川と並木に沿って、奥に引き込まれていき、最後は空に向かって上がっていき、元に戻ってきます。
どこにでもありそうな風景ですが、構図の巧みさが光ります。
印象的な水辺の風景
手前の「濃く黒い木の幹」と奥の「淡くブルー系の川や建物」の対比が魅力です。
巧みな色合いで遠近感を表した名作です。
こちらは、全体に淡いトーンで仕上げており、そこが魅力の作品です。
印象的な海岸風景
数少ない海景作品の一つです。
印象派では時々、影の色に赤紫が効果的に使われていますが、この作品でも空や海岸の影に赤紫が使われています。
私も、大好きな色です。
印象的な雪景色
黒と青を主体とするモノトーンのこの作品に惹かれました。
評論家は、
「(シスレーの)いくつかの作品、特に雪景色には、日本美術に対する際立った共感も見られる」
と評しています。
建物の黄色が効果的です。
最後に
最後に、シスレーが残した貴重な言葉をあげておきます。
少し難解な文章ですので、噛み締めながら読んでください。
「芸術作品に生命を吹き込むことは、疑いもなく、真の芸術家の最も必須の仕事の一つです。形態、色彩、絵の表面と、全てがこの目的のために奉仕しなければなりません。
芸術家の印象は生気を与える要因であり、この印象だけが絵を見る人の印象を解放できるのです。
そして、芸術家は自分の技術に精通していなけけばならないことは当然ですが、時として生命力横溢の頂点に達せられた絵の表面は、芸術家が保持する感覚を見る人に与えます。
ご存知のように、同じ絵の中で表面にいろいろ変化があることに私は賛成です。これは通例の意見とは一致しませんが、正しいと信じています。
特に光の効果を描くことが問題になる時は、そう思います。
なぜなら、太陽が風景のある部分を柔らかく見せるとき、他の部分はくっきりと浮き上がらせるからです。
自然の中でほとんどの物質的とも言える表現を見せるこれら光の効果は、物質的なやり方でカンヴァス上に表現されなければなりません。」
いかがでしたか?
素晴らしい画家でしょ!
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