藤田嗣治が戦後に描いた無表情な子どもたちの意味を探るため、フジタの生涯を紐解きました。
私は、戦後の藤田嗣治作品が好きです。なぜなら、そこに人間フジタが見えるからです。
フジタの経歴を振り返りながら、戦後のフジタ作品誕生の理由とその魅力に迫ります。
戦争は藤田嗣治に何をもたらしたのか
人間・藤田嗣治を読み解く
藤田嗣治(フジタツグハル) 1886 – 1968 享年81歳

フジタは第二次世界大戦に伴い、絵で名声を得ていたパリを離れ日本に帰国します。
そして日本では、軍部の要請を受けて従軍画家となり、戦争画を描くようになります。
それだけでなく、彼は戦争画によって名声を得ることとなります。
そのため、戦後になると”画家の戦争責任”を問われ、画壇からさまざまな誹謗中傷を受けました。
名声は彼を守ってくれなかったのです。
幸い、GHQによる戦犯にはならなかったのですが、それでも画壇からは責任を問われ続けました。
そしてフジタは、追われるように日本を離れ、フランスに向かったのです。
その時に、フジタは地位も自分の居場所も失ったのです。
パリへ戻った彼は、子どもや聖母子を描くようになります。
その子どもたちは現実の子どもではなく、「彼一人だけの空想の小どもたち」でした。
私には、それらの作品にはフジタの人生全てが詰まっているように思えてなりません。
フジタの経歴をざっと取り上げたのちに、戦後の絵画を中心にご紹介します。お楽しみに!

こちらの本を参考にさせてもらいました。
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もっと知りたい藤田嗣治 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) [ 林洋子(美術史) ] 価格:1980円 |
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藤田嗣治とは
1886年(明治19年)11月27日 東京の牛込区で次男として生まれました。
父は軍医として台湾や朝鮮などの衛生行政に尽力し、のちに陸軍軍医としての最高職である陸軍軍医総監にのぼりつめた人物です。
1888年(明治21年2歳)一家は父の転任にともない、赴任先の熊本に居を構えます。
1891年(明治24年5歳)母が34歳という若さで他界。
やがて父は再婚しますが、嗣治は東京四谷の長姉の嫁ぎ先、蘆原家に預けられることになります。
小学校卒業までの間、この義兄を父代わりに蘆原家で過ごしました。その後、東京の大久保に家を構えた父のもとに戻ります。
1900年(明治33年14歳)東京高等師範学校付属中学校に進学
中学ですでに油絵を学んでいました。
そんなある時、父が自分を陸軍士官学校に進学させるつもりであることを知ります。
しかしフジタは、父に宛てて長文の手紙をしたため、「画家になりたい、好きな事をさしてくれ。必ず成功してみせる」と書いて、画家志望であることを伝えたのです。
その際に父は、十円札が五枚入った一通の封筒をフジタに渡して、暗に認めたことを伝えました。ちなみに50円とは現在の価値で100万円くらい。
フジタにとって父は大変怖い存在でしたので、生涯にわたり感謝の念を抱いたようです。
1904年(明治37年18歳)中学4年の頃からは、夜間にフランス語を学ぶため、語学学校にも通いました。
1905年(明治38年19歳) 東京美術学校の西洋画科に入学
教授陣には、パリ経験で知られる黒田清輝、久米桂一郎、和田英作らがおりましたが、フジタは同級生たちと破天荒なボヘミアンぶりを競い合っていたようです。
1910年(明治43年24歳) 卒業時の成績は中の下。
すぐにはフランス留学はかなわず、恩師・和田英作の助手として帝国劇場の壁画や背景制作を手伝ったり、白馬会に出品したりしていました。
フジタは当時を次のように振り返っています。
「文展には三年とも見事落選して悲憤やる方のない僕に対して、『フランスにでも行ってゆっくり勉強して来い』と親父がすすめてくれた。」
理解のある父親ですね。
1913年(大正2年27歳)フジタは初めてパリの地に足を踏み入れました。
この頃のパリは、フォービズムやキュービズム、そしてエコール・ド・パリなど革新的な絵画運動が次々と花開いていた時代でした。
フジタは、まもなくパリのモンパルナスに落ち着きます。
そこには、ヨーロッパ諸国などから、多くの外国人が集まっていました。貧しい彼らは、比較的物価の安いモンパルナスに住んでいたのです。
パブロ・ピカソとも交流したと、伝えられています。
このような場所で埋もれないためには、大変であったことと察します。

この後のフジタのパリ画壇での活躍については、ここでは割愛させていただきます。
別の方の記事をご覧ください。
なぜなら、私には、戦後のフジタの方が魅力的だと感じるからです。
第二次世界大戦とフジタ
戦争の気配が濃く漂い始めていた1938年(昭和13/52歳)秋、フジタは「絵筆で戦時貢献すべし」とする軍部の協力要請に従い、従軍画家として中国大陸に渡ります。
約1か月の戦線取材を経て帰国したのち、最初の戦争画を制作しました。
この時に描かれた2点の油彩画は、中国の広大な風景を背景に展開する軍部の作戦を記録した、いわゆる「作戦記録画」でした。
その後再びフランスに戻っていましたが、1939年の秋にヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発し、翌年春にはドイツ軍がパリに侵攻する報を受け、藤田は日本に緊急帰国します。
藤田は帰国後まもなく、戦時体制への恭順の意を態度で示し、「おかっぱ頭」をやめて丸刈りとなりました。
そして元・陸軍軍医総監である父の死(1941年1月)や、同年7月の帝国芸術院会員への任命によって、戦争画の制作から逃れられない運命を悟ることとなりました。
やがてフジタは戦争画にのめり込むようになり、他の戦争画家たちを主導する立場ともなります。
フジタ、画家たちと激戦の足跡をたどりながら、数々の戦争画の名作を生み出したのです。

しかし、敗戦を迎えた時に疎開先のフジタを待っていたものは、戦争画家としての責任を問う美術界からの誹謗と中傷でした。
画家として新たなスタートを切ろうとしていたフジタは、「画家の戦争責任」という大きな壁に直面します。
画壇からは戦争協力者としての烙印を押され、それが発端となってさまざまな誹謗中傷にさらされたのです。
結局、GHQ(連合国軍総司令部)による戦犯リストには藤田の名前が載ることありませんでした。
これにより、画壇に対して深い不信感をつのらせたフジタは、日本を離れ、フランスに活動の拠点を移すことを思い描くようになります。
ここで、フジタは「軍国主義者だった」、むしろ「被害者だった」と、簡単に割り切れることではありません。
しかし、軍の要請に応じたとはいえ自ら戦争画に深く関わり、結果として戦後にその責任を問われたこと、それはフジタの心に深く刻まれたことでしょう。
晩年、再びパリへ
藤田は戦後まもなく、日本を追われるようにパリへと向かいます。
しかし、フランスへ渡るために駐日フランス領事館にビザ取得の申請をしたものの一向に許可が下りる気配はなく、急遽アメリカへのビザを取得し、1949年(昭和24/63歳)3月、単身ニューヨークへと向かいました。
ニューヨークで描いた新作を集めた個展ではたいへんな話題を集め、これによって藤田はパリで再び活躍する自信と渡仏のための費用を得ることができたのです。
1950年(昭和25年64歳) 約1年のアメリカ滞在を経て、フジタはフランスに帰還します。
これらの作品は、ニューヨークで制作されたものです。すでに戦後のフジタの変化を感じませんか。


モンパルナスのアトリエに居を構え、再びパリの街並みを描き、「子どもたち」、「宗教」といったテーマにも新たに取り組みます。
私は、フジタの絵画の中では「子どもたち」の絵がもっとも好きです。
以下は、私の偏見でしょうが、正直に申し上げます。
フジタ作品は、世界的な評価を受けています。
しかし私はこれまで感覚的に、『誰かを真似た上手な絵、特に若い頃の作品を』と捉えていました。
フジタの心よりも絵が前面に出ていると感じていました。
パリで画家として生き抜くことは並大抵のことではなかったでしょう。常に最先端のものを要求されたでしょう。
素直にフジタらしさを表現することは困難であったのでしょう。
私は、そんなフジタが戦後になってやっと自ら好きな絵を描くことに目覚めたのではないのかと考えています。

空想の中に住む子供達の絵
パリに戻ってまもなく、パリの街にいることを確かめるように、戸外に出かけ街並みを描きはじめました。
住み慣れたモンパルナスや、かつて足繁く通った街の風景を愛着を持って描きました。
その思いはまた、パリ到着直後から数多く描かれるようになった子どもたちへと注がれるようになります。

フジタの言葉です。
「私の数多い小供の絵の小児は却て私の創作で、モデルを写生したものではない。(中略)私一人だけの小供だ。私には小供がない。私の画の小供が私の甥子なり娘なりで一番愛したい小供だ。」
言葉通り、この頃の絵ではこの世に存在しない、フジタの空想のなかの子どもが画面の主役となっています。
ただし、彼らのほとんどは無表情で悲哀に満ちた瞳をもち、顔立ちも画一的であり、いわゆる子どもらしさを感じさせません。

なぜ無表情なのでしょう。
普通の子どもなら、”笑う”、”怒る”、”泣く”、”はしゃぐ”はずですよね。
しかし藤田の晩年の子どもは感情をほとんど示していません。
それは人物画というより、むしろ宗教画の天使あるいは聖人像に近い存在だったのではないでしょうか。
晩年の藤田は洗礼を受けています。宗教画を数多く制作し、礼拝堂まで建てました。
あの子どもたちは現実の子どもではなく、魂の姿、救済の象徴として描かれているように見えます。

さらに印象的なのは、子どもの目が妙に大人びていることです。
幼児の目ではありません。何かを知り過ぎているような、どこか諦めたような目をしています。
戦争の悲惨さを目の当たりにした藤田自身の眼差しが投影されているようにも見えます。
つまり、子どもを描いているようで、実は藤田自身を描いているのではないでしょうか。
さらに、フジタの晩年の子どもたちには「可愛い」さがありません。
むしろ静かな寂しさを感じます。その寂しさこそが、戦後の藤田の心の風景だったのかもしれません。
戦争と亡命を経験した画家が追い求めた「失われた無垢」の姿では。
まさにフジタ作品の集大成ではないでしょうか。

最後に
フランスへの永住を決意した藤田は、1955年(69歳)、妻の君代とともにフランス国籍を取得します。
その4年後にはカトリックに改宗、洗礼名「レオナール」を名乗るようになります。
スイスで没するまで、二度と日本の地を踏むことはありませんでした。
晩年のフジタのアトリエには、子どもの絵がつねに何点も飾られていました。
子どもに恵まれなかった藤田は、それらに囲まれて過ごすことに喜びを感じていたのかもしれません。
画家としての激しい競争を離れ、自分が描きたい絵を自分のために描いたのでしょう。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
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