画家”アンリ・ルソー”をご存じですか?
近年、彼独特の世界感に多くの絵画ファンが惹きつけられています。
しかしルソーは、失礼にもヘタウマという称号が与えられていました。
ルソーが、不思議な絵に込めた企みを知りたくはないですか。
彼の人生と作品をたどります。
”アンリ・ルソー”
独特な絵はどのように生まれた?
ルソーは、独学で日曜画家として絵を描いていました。
稚拙な絵画と酷評されながら、
そして幾度か家族との辛い別れに会いながらも、
決してめげずに夢であった画家になり、自身の絵画を追求し続けた人です。
彼は、老年になってもやる気満々でパワーがあり、晩年に近づくほど作品がよくなり進化していきました。
”アンリ・ルソー”の生涯
1844年5月21日-1910年9月2日 66歳で没す
ルソーが本格的に絵を描き始めたのは40歳の頃でした。
ルソーの純粋無垢な画風は画壇から酷評されましたが、一方、ピカソには絶賛され、また印象派の画家ロートレック、ゴーギャンなどからも高く評価されていました。
ルソーの絵画の不思議を知るために、まず彼が画家になるまでの人生を辿ってみます。
ルソーはフランス西北部のラヴァルで不動産業の家に生まれました。
ラヴァルは地図の通りノルマンディー地方に隣接しています。
私はオンフルールとモンサンミッシェルには一度訪れたことがあります。大変素敵なところでした。
NETで調べたところ、ラヴァルも歴史のある美しい町のようです。
ルソーは子供の頃から、画家になる夢を持っていました。
しかし、親が事業に失敗して借金があったため、絵画を学ぶ余裕はありませんでした。
1863年(19歳)~1868年(24歳);5年間の軍役につきます
1868年(24歳);パリに出て結婚します。
1871年(27歳);生計を立てるため、パリ市の税関に勤め始めます。仕事はパリに運ばれる物資の番人でした。
彼は仕事で出世する気などなく、彼の夢はあくまでも画家になることでした。
35歳の作品も残されていますので、若い頃から絵を描き続けていたようです。
40歳の頃、知り合いの画家を通してルーブルで模写をする許可を得ます。
この頃から仕事が休みの日や空いた時間を利用し、独学ですが本格的に絵を描き始めました。
1886年(42歳);アンデパンダン展に出品を始めます。同展には終生出品を続けました。
アンデパンダン展とは
無審査・無賞・自由出品を原則とする美術展です。
パリで始まり(1884年)、世界中に広まりました。
他国の展覧会と区別するため、パリ・アンデパンダン展と呼ばれます。
藤田嗣二も出品しています。
ルソーは厳しい審査がある展覧会には入選できなかったようです。
1888年(44歳);最初の妻クレマンスが亡くなります。
1903年(49歳);2度目の妻ジョセフィーヌにも先立たれます。また、5人の子供を持ちましたが4人を病気などで早くに失くしています。
1903年(49歳);22年間勤めた税関を早期退職し、本格的に画家で食べる決心をします。この年に2人目の妻が亡くなっていますので、それが契機だったのでしょう。
そして66歳で亡くなるまで絵を描き続けました。
※西暦と年齢を併記していますが、生年月日の関係で年齢については参考として。
作品を読み解く
”アンリ・ルソー”
ルソーの作品は二百数十点しか現存していません。実際、それほど多くの作品を描いていないようです。
ルソーの絵は謎めいた魅力に溢れています。
遠近法など全く気にしない独自の手法ですが、単純な絵ではなく絵の中にはたくさんの彼の企みがあると言われています。
一方で「本人は真面目に描いているが、途中から自分の世界に入っていったのでは」と評する人もいます。
ルソー自身は「前衛とか、絵画に革命を」など、全く考えていませんでした。
しかし、ピカソやゴーギャンなど新進気鋭の画家たちには、自分たちの求めるものがルソーの絵に見えたのかも知れません。
19世紀末から20世紀初めに、キュビズムやシュルレアリズムの時代を迎えますが、ルソーの絵はこれらを先取りしていたとも言われています。
「カーニヴァルの晩」42歳
・超おすすめ
初期の風景画です。
カップルに極端なほどスポットライトが当たっています。
人物付近の背景は夕焼けですが上方は満月の輝く夜空であり、夕暮れと月夜が同居している風景を描いています。
巧みなたくらみがあります。
これは、本格的に絵画を始めて間もない頃の作品です。
子供の頃から長年蓄積してきたであろう絵画への思いが感じとれます。
私の好きな作品です。
シュールレアリズムの巨匠/ルネ・マグリットも時々、このように違った時間の同居を表現しています。
マグリットにも影響を与えているのでは。
「果樹園」42歳
ルソーの傑作の一つとされる、パリ郊外の秋の風景です。
しかし、果樹園なのに果物が描かれていなかったり、雲と山なみが一体化してたりと不思議な絵です。この絵はピカソを虜にしたと言われています。
この絵は、次のように平面的なもの3つで遠近感が表現されています。
- 下部;果樹園
- 中程;秋の紅葉と建物
- 上部;空と雲と山なみ
ルソーの魂胆がたっぷりと込められているようです。
「エッフェル塔と
トロカデロ宮殿の眺望」54歳
人物には動きがなく、影が描かれていません。夕暮れなのに太陽が出ていますし、雲の形や表現は稚拙です。
この絵は54歳の時の作品ですが、当時の画壇からは稚拙で子供の描いた絵のようだと酷評されています。
影がないのは、当時、流行していた日本の浮世絵の影響ではないかと言われています。
遠近感の表現方法も、先ほどと同様であり日本画のような表現方法です。
稚拙に見える箇所もありますが、一方で木々の紅葉や水面、夕暮れの空は大変趣があります。
不思議な安らぎをもらえる絵です。
「子供の肖像」48歳
ルソーにとっては新しいジャンルである肖像画です。
子供の表情に愛らしさや子供らしさがなく、達観した大人の表情にも見えます。
手に抱えた人形もオッサン顔で可愛らしさとはかけ離れており、少女という設定と不釣り合いです。また中腰の様子も何か変です。
人形はルソー自身かもしれません。
この肖像画は自身の子供達への追悼の絵だという説があります。
一方で、純粋無垢な子供が時に親に対して見せる真剣な表情のようにも見て取れます。彼にとってはこれが子供のリアルな表情なのかもしれません。
ただ、服装や足元のお花畑は可愛くて少女っぽいです。
このアンバランスがこの絵の魅力であり、ルソーの企みではないでしょうか。
田舎の結婚式(婚礼)61歳
ルソーの絵では、よく人物が浮遊するように描かれています。この絵でも花嫁の足が見当たらず、ドレスの裾まで体全体が宙に浮いているように見えます。
犬の不釣り合いな大きさも気になります。
また、人物は写実的に描写されていますが、木々の幹や葉は簡略化したデザインのように表現されています。
その分、人物の表情が引き立っているように感じます。
これも、ルソーの企みでしょうか。
「私自身、肖像=風景」46歳
この絵は、ルソーの心のうちが覗ける作品と言われています。
ルソーは、この作品を死ぬまで手元において、事あるごとに描き加えたとされています。それはこんなところに見て取れます。
- この絵には、「描き始める2年前に結核で亡くなった最初の妻クレマンスの名前」とともに、「再婚するも早くに亡くなった2番目の妻ジョセフィーヌの名前」が書き加えられています。
- 襟元の丸い勲章は、後年に『街の人に絵を教える教授』に任命された時にもらったものです。
ルソーはこの絵を描くときには、まず先に中心人物を描いて、その人物を説明するものを描き込んだようです。(この体も少し宙に浮いていますが‥。🤗)
これは自画像ですので、まず自分自身は画家であると高らかに表明しています。
この時代のルソーは、展覧会に出しても非難轟々で笑い物になり、ヘタウマと表現されていました。
しかし本人は、画家として立てるだけの確固たる自信を持ち、それを表現したように思います。
背景にはルソーの職場であるセーヌ川ほとりの船着場、そして彼が造形に心を奪われたエッフェル塔が描かれています。
また、空の雲は日本列島のようにも見えますが、実際、日本の地図を描いたとも言われています。万国旗にも日の丸やそれっぽいのがいくつかありますね。
当時はジャポニズムと言われ日本の作品が大変人気があり、ルソーも浮世絵のファンでした。
写実と抽象、何かシュールなものを感じてしまいます。
代表作「ヘビ使いの女」63歳
密林(ジャングル)は60代になってからのモティーフです。
怪しげな密林の川岸で、女の笛に誘われたのか、蛇が這い出して女の体に巻きついています。そして女の眼が暗闇の中で光っています。
手前で光る鋭利な葉と鳥の赤い羽が象徴的です。
ルソーは実際に南国へ行ったことはなく、パリの植物園で熱帯の植物を熱心に観察して、独自の架空の密林を描き出しました。
ルソー独特の世界観が総結集したような絵です。
「馬を襲うジャガー」66歳
この絵には密林の中でジャガーに襲われる白馬が描かれています。
密林の中に白馬がいるのは不自然であり、アジの干物のようなヒョウはやや滑稽にさえ見えます。
ルソーはヒョウを見たことがなく参考にしたのは豹柄の敷物でした。どうりで🤗。
しかし、密林の緑にはこだわっており、奥深さを出すために20種類以上の緑でかき分けています。
不自然な動物との組み合わせで、ある種シュールな画面になっています。
動物が襲われる劇的な瞬間ですが、どこか優しく静かな雰囲気も感じられます。
独学で描き続けてきたルソーの真骨頂と言えるでしょう。
「夢」死の前の集大成 66歳
死の数ヶ月前に完成した最後の作品です。
ルソーは晩年、この絵に関して次のように語っています。
「幻想的なモティーフを描いていたある日、私は窓を開けなければならなかった
恐怖に駆られたのである。」
絵を描きながら、自分もその世界に入り込んでしまったのでしょう。
絵にはシャーマニックな女性が描かれており、目に見えないものの気配すら感じられます。
ハスの花が象徴的に描かれており、すでに死後の世界に入って描いていたのかもしれません。
凄みさえ感じられる作品です。
日本で観れる美術館
”アンリ・ルソー”
世界の現存作品の内30点以上が日本にあるとされています。
後述のハーモ美術館のようにルソー作品をコレクションの中心に据える美術館もありますので、実物をみる機会を持てそうですね。
ハーモ美術館 諏訪
9点のルソー作品を所有しており、日本で最も多くルソー作品を所有する美術館です。特別展などの期間を除いて、ルソー作品全てを常設展示しています。
この美術館では、パントル・ナイーフ(素朴派)の作品を常設展示ししています。後述の通りアンリ・ルソー、グランマ・モーゼスのように独学で絵を描いた人の作品です。
ハーモ美術館は、個性的なコンセプトを持った美術館として世界でも注目されています。是非とも訪問したいものです。
素朴派とは、19世紀から20世紀にかけて存在した絵画の一傾向で、ナイーブ・アート、パントル・ナイーフとも呼ばれています。
画家を職業としないものが、正式な美術教育を受けぬまま、絵画を制作しているケースを意味しています。
こういった画家は、一般に美術界の潮流や技術的なことにはあまり関心がなく、かえって独創的な作風に至ることが多いようです。
どのような手法で描くかよりも、なにを描くか、モチーフにこだわる傾向にあります。
対象を写実的に描写した具象的な絵画がほとんどです。
世田谷美術館
ルソー作品・4点を所有しています。常設展示をしていないようです。
世田谷美術館では、ハーモ美術館と同様、素朴派と呼ばれる作家たちの作品を多く収蔵しています。
ポーラ美術館 箱根
ルソー 作品・8点を所有しています。
収蔵品の「コレクション展」があり、そこで数点ずつ紹介されています。展示替えされますので、事前に調べてから訪問してください。
最後に
ルソーは印象派とほぼ同時期に活動した画家ですが、全く我が道を行く画家でした。
そして印象派にも決して劣らない、崇高さと奥深さ、優しさがあふれる絵画を残しました。
ルソーは1910年に壊疽(エソ)という病気のためパリの病院で亡くなりました。
壊疽とは疾患や血行障害によって抹消組織が壊死する病気です。
肺炎のために亡くなったとの記述もありますので、療養中に肺炎で亡くなったと言うのが正解かもしれません。
ルソーは妻に2度も先立たれ、4人の子供亡くすという辛い人生でした。
晩年になって画業として少しは認められるようにはなりましたが、彼の生活を変えるほどのものではありませんでした。
そんな中で、ルソーは日曜画家から夢であったプロの画家に転身。へこたれず、諦めず、自身を信じて死ぬまで絵を描き続けました。
亡くなった後とはいえ、世界中の人から愛されてよかったですし、こんな画家が愛されるのは当然のことでしょう。
次のルネ・マグリットもきっと気に入ってもらえるはずですよ。
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