”竹久夢二はこんな画家”嫌いだったけど長崎十ニ景で見直した

竹久夢二はこんな画家

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「長崎十二景」を知って、なぜ夢二を見直したのか

”竹久夢二はこんな画家”と題し、作品「長崎十二景」を中心にして深掘りしました。

私は、正直なところ夢二作品をあまり好きではありませんでした。

それは少女漫画を好きになれないのと似ています。

しかし、作品「長崎十二景」を知ってから変わりました。

なぜなら、

竹久夢二とはこんな画家!

竹久夢二 1884年(明治17年)〜1934年(昭和9年)享年49歳

夢二は、いわゆる美術界の主流である「日本画壇」の作家ではありません。

むしろ、

  • 雑誌の挿絵
  • 絵はがき
  • 千代紙
  • 浴衣図案
  • 本の装丁

など、人々の日常に入り込む仕事などを多く手がけました。現代で言えば、画家とグラフィックデザイナーとイラストレーターを兼ねた存在に近いです。

そのため夢二の作品には「高尚な美術」というより、人の感情や郷愁に寄り添う親しみやすさがあります。

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あまり好きではなかった夢二

とはいえ、私はあまり夢二作品を好きではありませんでした。

若い頃に岡山の夢二郷土美術館で作品を観た時には「なんだか少女漫画の原型みたいだな」という程度の印象でした。(少女漫画ファンの皆様、すみません🙇)

実際、夢二が描く、

  • 細長い手足
  • 大きな瞳
  • 憂いを帯びた表情
  • ロマンチックな世界観

これらは後の少女漫画家たちに大きな影響を与えました。

特に『ベルサイユのばら』のような耽美な表現との共通点を指摘する人もいます。

実は、私も『銀河鉄道999』に出てくるヒロインのメーテルのような容姿の女性は好きです。

しかし、夢二の女性像は好きになれなかったです。

それは多分、夢二作品の”ロマンチックな世界観”と”感傷的すぎる点”にあるのかもしれません。

さらには、

当時の私には、そういった女性像を受け入れて、夢二の想いを感じ取るだけの心の余裕はなかったのでしょう。

竹久夢二はこんな画家

夢二とはこんな人

1884年(明治17年)916日、 岡山県の代々酒造業を営む家に次男として生まれました。

本名は茂次郎。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられました。

夢二は幼い頃から絵を描くことが好きだったようです。

岡山県の農村で育ちましたが、少年時代から絵を描くことを好み、学校の教科書やノートにもよく絵を描いていたと伝えられています。

そして文学や詩にも強い関心を持つ、感受性の豊かな少年だったようです。

夢二の親族に芸術家はおらず、夢二は母親の影響を強く受けたといわれています。

母親は機織りや裁縫が得意で、美しい布や模様に囲まれた生活でした。

夢二の作品に見られる

  • 着物の柄
  • 装飾的な線
  • デザイン感覚

には、その様を見てとれます。

1901年(明治34年)17歳で単身上京し、翌年から早稲田実業学校で学びますが、画家を志して中退しています。

その後も、夢二は美術学校などで学んでおらず、正規の美術教育を受けていません。

当時は、画家を目指すなら、横山大観や黒田清輝のように専門教育を受けるのが一般的でした。しかし夢二はほぼ独学でした。

新聞や雑誌の挿絵を描きながら頭角を現し、独学で画家として成功したのです。

彼の名を一躍有名にしたのは、細い首、大きな瞳、どこか憂いを帯びた女性像です。これは「夢二式美人」と呼ばれ、大正時代の若者たちの心をつかみました。

一方、夢二は、

  • 詩人
  • 作詞家

としても活躍しました。

代表的な詩「宵待草」は歌曲として大流行しています。

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夢二 – 少年期から青年期の日本

夢二の少年期から青年期の日本はこんな時代でした。

  • 1894 〜1895年 (明治27〜28年/4〜5歳)日清戦争
  • 1904〜1905年(明治37〜38年/14〜15歳)日露戦争
  • 1910年(明治43年/20歳)韓国併合
  • 1914〜1918年(大正3〜7年/24〜28歳)  第一次世界大戦
  • 1918年(大正7年)第一次世界大戦終結
  • 1920年(大正9年)新婦人協会設立、日本初のメーデー

激動の時代ではありましたが、大正時代の日本は第一次世界大戦における物資の供給国として大変繁栄していました。

そして大正時代は、個人の解放や新しい美意識が追求された時代でもありました。 

まさに大正ロマンの時代です。ある意味、大正バブルですね。

大正ロマンとは、大正時代(1912年~1926年)に開花し、西洋文化と日本の伝統が融合した”芸術・文化・思想”を指す言葉です。

例えば、こんな女性ファッションをご存知ではないですか。

  • 女学生の間では、鮮やかな銘仙(めいせん)の着物に海老茶色の袴を合わせ、ブーツや大きなリボンを身につけるスタイルが大流行しました。
  • また、西洋のファッションやショートヘアを取り入れ、カフェーなどで自立した社交を楽しむ、モダンガール(モガ)と呼ばれる新しい女性像が登場しました。

そんな時代において、夢二は「大正ロマンの代名詞」と言われる存在となり、抒情的な美人画やモダンなデザインで一世を風靡したのです。 

竹久夢二はこんな画家 竹久夢二はこんな画家

夢二と長崎十二景

前置きが長くなりましたが、そろそろ「長崎十二景」に迫りたいと思います。

長崎十二景が生まれた背景

異国情緒が漂う長崎。

夢二は、この地を舞台に、長崎ならではの風景や伝統行事を背景にして、12人の女性たちを描きました。

夢二は1918年(大正7年)に招かれて長崎を訪れます。

十二景は、その後の1920年(大正9年)に記憶を頼りに描かれた作品です。

長崎へ夢二を招いたのは、街の繁栄を支えた人物の一人、永見徳太郎氏(1890年-1950年 )です。

永見家は長崎有数の商家で、徳太郎氏は多くの芸術家たちを支援し、パトロン的な役割もしていました。

芥川龍之介や菊池寛など、著名な文化人たちを東京から招きもてなしたとも。

竹久夢二はこんな画家

夢ニは息子の不二彦を伴って、永見亭に2週間ほど滞在し、永見の案内で長崎の名所を巡りました。

2週間に及ぶ長崎滞在の様々なお世話に対する深い感謝の気持ちとお礼の意味を込めて描かれたのが長崎12景でした。

余談ですが、1920年(大正9年)の国勢調査によると、人口が多い都市の上位から1位:東京、2位:大阪、3位:神戸、そして長崎は7位でした。長崎は九州で最も人口が多かったのです。

長崎の繁栄ぶりが伺えますね。3位の神戸にも驚きます。

長崎十二景とはこんな作品

先ほどの通り、長崎十二景はお礼に描いたものではありますが、夢二が描いた絵は決して”夢二らしいロマンティックで感傷的なもの”ではありませんでした。

夢ニは、目覚ましい発展を遂げていた長崎に身を捧げながら生きた女性たちを、その生き様の裏にあった物語を絵にしました。

驚くことに、長崎12景に描かれた女性は、ほとんどが遊女や芸妓だったのです。

長崎最大の花町だった「丸山遊郭」は、「江戸の吉原」、「京の島原」と並ぶ花街であったようです。

夢二は、自らの美人画によって、それらの女性たちを救いあげたかったのかもしれません。

なので、描かれているのは、決して表面的な長崎ではなく、その背後の世界のなのです。 

しかし、一つの異質な作品を除いて!それは、、

それでは、12作品をご紹介していきます。

青い酒

女性が飲んでいるのはカクテル?和装の女性が洋酒をたしなむ様子です。

大正時代の自由な空気が透明感のある色合いで描かれています。

解けてだらりと伸びた帯から、くつろいだ様子が伺えるとともに、色気も感じ取れます。

竹久夢二はこんな画家
作品「青い酒」

サボテンの花

サボテンの脇で三味線を弾く女性の姿です。当時”ハイカラだった植物”と”伝統的な和の調べ”、異色の取り合わせに開放感が伝わってきます。

お酒が入っているのか、目元がやや赤いですね。

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作品「サボテンの花」

ネクタイ

ご存知のように長崎は多くの外国人が訪れた国際都市でした。

女性たちは外国人とも交わりました。

女性が少しつま先を上げてるような様子が描かれています。夢ニは、こういったふとした表情や仕草の美しさを見事に切り取りました。

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作品「ネクタイ」

眼鏡橋

中島川にかかる眼鏡橋は、江戸時代の初めに作られた日本3名橋の1つです。

この美しい橋の手前で女性が振り向く様が描かれています。

色白の顔、潤んだ瞳、少し開いた口元、多くの人々を魅了した、まさに夢二式美人です。

また、夢二は手を大きく描きました。夢二の描く手は、女性の美しさを生み出す重要なパーツでした。

柳の枝のように、細くしなった指が、内面のたおやかな情緒を感じさせます。

竹久夢二はこんな画家
作品「眼鏡橋」

出島

出島は日本が鎖国していた江戸時代には、海外とつながっていた人工の小さな島でした。

当時は海に突き出た島でしたが、埋め埋め立てられた今は建物の1部が復元され、残念ながらあまり面影はありません。

三人の宣教師が後ろを通っており、出島の近くには船も見えますね。

花魁風のかんざしが印象的です。

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作品「出島」

浦上天主堂

長崎はキリスト教の中心地でもありました。この女性は外国人のようです。

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作品「浦上天主堂」

凧揚げ

春の訪れを告げる「凧揚げ」には、外国人男性と日本人女性が描かれています。

おのずと男女の関係が推測されます。

海外と交流の深かった長崎の様子が伝わってきます。

 

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作品「凧揚げ」

丘の青楼

長崎には商人や外国人のために遊郭が数多くありました。

丸山には今でも、長崎検番という芸妓衆の稽古や、お座敷の手配を行う建物があります。

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作品「丘の青楼」

十字架

こちらは「十字架」と名付けられた作品。壁にかけてあるのは十字架のレリーフです。

遊女がまとう着物の赤が緑のソファーに生えます。

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作品「十字架」

化粧台

男性はロシアの軍人です。

遊女が羽織る真っ赤なじゅばんが絵になまめかしさを与えています。

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作品「化粧台」

阿片窟

阿片に興じている女性たちでしょうか。

うわべだけの美しさを描くのではなく、ここでは退廃的な美しさを描きました。

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作品「阿片窟」

燈篭流し

この女性は、華やかさ艶やかさとは、かけ離れた姿で、どこか悲しそうでもあります。

子供の手を引き、 後ろを向いていて顔が見えません。

実は、この1枚に、長崎12景のもう一つの物語があります。

ところで夢二は、20代から東京で多くの雑誌や新聞などの挿絵を書き活躍していました。

若くして他万喜と結婚するも、すぐに離婚しています。夢ニは多くの女性と浮き名を流しています。イケメンですしね。

そんな時に出会ったのが12歳年下の女性・笹井彦乃でした。夢ニと彦乃は強く惹かれ合うようになります。

二人は歳の差(11)があることから、彦乃の父は夢二との交際に反対します。そのため夢二と彦乃は京都へ駆け落ち同然に移り住みます。

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夢二と彦乃

そして、夢ニは最愛の人と暮らし、多くの作品を生み出しました。それは人生で最も幸福な時期だったと言えるでしょう。

しかし、幸せは長くは続きませんでした。彦乃は結核を患って24歳という若さで亡くなります。

こちらの絵が完成したのが1920年の2月、その前の1月に彦乃が亡くなっています。

この絵は、彦野が亡くなった後に描かれた絵です。

結核を患っていた彦乃は夢二の元から引き戻され、そのまま他界したのです。

それは夢ニが長崎の12人の女性を描く直前のことでした。

彦乃の死後、夢ニは何枚も面長で長いまつげの濡れた瞳の女性を描いています。

それらの絵は、最愛の人、彦乃の記録をたどり、その美しさを永遠に残そうとした果てに生まれたとも言えるのです。

この絵のタイトルは「燈篭流し」、亡くなった人を弔う画です。

長崎では、このような船の形をしたものを流すのが風習です。

女性が身につけている着物は網代格子の柄、それは彦乃が好んでよく来ていた柄であったとのこと。

彦乃は、自らの魂を乗せて彼方へ向かう精霊舟を見つめています。

振り返ることなく、あの世へ旅立つ最愛の人、その後ろ姿には夢二の彦乃を愛しく思う心と深い悲しみが共に込められているのです。

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作品「燈篭流し」

最後に

夢二が永見徳太郎氏に当てた手紙をご紹介します。

「1週間ほど前、精霊流しと言う作品を送りました。お手元へ着いたでしょうか?これはあなたにだけ見ていただけると信じています。」

昭和に入ると、永見の家は没落、美術品は1つ、また1つと手放されていきました

江戸から大正にかけて、隆盛を誇った長崎がその輝きをゆっくりと失っていった時代、それでも永見はこの12枚だけは最後まで手元に置いていたといいます。

かつての輝きを忘れないとするかのように。

ご覧いただいたように「長崎十二景」には、夢二自身の記憶や想いが混ざり合った「夢二の心の中の長崎」が描かれています。

永見徳太郎も、夢二の想いを壊さないよう、あえて詳しく説明しなかったと回想しています。

夢二は長崎を「異国文化が流れ込んだ港町」としてだけでなく、女性たちの声が漂う場所として描いたのです。


最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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第二の人生に入り、軽い仕事をしながら、風景画を描いて過ごしています。現役の時に絵画を始めてから早10年以上になります。シニアや予備軍の方々に絵画の楽しみを知っていただき、人生の楽しみを共有できればとブログを始めました。