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油彩で花と街の風景を描いています
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”石田徹也はこんな画家”バブル後の若者の苦悩を象徴的な作品で!

石田徹也はこんな画家

”石田徹也はこんな画家”と題して、31歳で逝った夭折の画家を取り上げました。

石田徹也をご存知でしょうか?

バブル後の若者の苦悩を象徴的に描いて、世に衝撃を与えた画家です。

彼の作品は今も人々の心をとらえています。石田の生涯と作品をたどりました。

石田徹也が生きた時代とは?その生き様と作品とは?

夭折の画家・石田徹也を解き明かす

石田徹也 1973年(昭和48年)ー2005年(平成17年)享年31歳

石田徹也の初個展『漂う人』(1996年・平成8/23歳)は、世に大きな衝撃を与えました。

それにも関わらず、当時のデザイン界から石田作品は商業ベースに乗りにくいものとみなされていました。

というのも石田作品は、単なるグラフィックデザインではなく、アート性を持っていたからです。

一方、現代アート界からは時代遅れの具象画、しかも旧来から描かれてきた自画像の一種とみなされました。

石田作品に衝撃を感じながらも、それをどう位置づければ良いのか誰もが分かりかねていたのです。

本人もそうであったようで、当時のノートには今後の進路について画家、イラストレーター、海外、実家に帰るの4択を組み合わせた図式が記されています。

自身の絵画活動に大いなる自信と野心を持つ一方で、固い信念を本当に実現できるのか、またそれが世に受け入れられるのか不安を持っていたようです。

次の石田の言葉で、石田の作品に対する想いがいかに壮大なものであったか、気付かされます。

<<聖者のような芸術家に強く、惹かれる。「一筆、一筆置くたびに世界が救われていく」と本気で信じたり、「羊の顔の中に全人類の痛みを聞く」ことのできる人たちのことだ。自分は俗物だと思い知らされます。>>

石田徹也はこんな画家
『囚人』1999頃

石田徹也が生きた時代の日本

石田哲也は1973年(昭和48)6月に生まれました。石田が育った頃の日本はどんな時代だったのでしょう。

1973年(昭和48) 10月にオイルショックが起こり、日本の高度経済成長が終焉を迎えます。とは言え、その後も経済成長はなだらかに続き、トイレットペーパー騒動などがあったものの、世相は割に安定していました。

1980年代半ばから90年代初めまではバブル景気の頃で、日本は繁栄に浮かれていました。

石田徹也はこんな画家

余談ですが、私の30歳代にあたります。当時は毎年、給料やボーナスが驚くほど上昇して行ったものです。

たた、この頃から「引きこもり」が社会問題化し始めていました。

1988年(昭和63/25歳) この年から翌年にかけて、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件・宮崎勤事件が発生しています。

大量のビデオフィルムが積み上げられた室内の映像は世間に大きな衝撃を与え、「オタク」と言う語が流布するきっかけとなりました。

1991年(平成3/18歳) バブル経済が崩壊し、失われた10年とも20年とも呼ばれる暗い時代が到来します。

1995年(平成7/22歳) 1月阪神淡路大震災、3月地下鉄サリン事件、7月PHSサービス開始、11月OSソフトwindows95の発売開始などがありました。

社会にとって、そして石田にとっても大きな転期となった年です。石田はこの年、大学4年生となり、将来の進路を定めていかなければならなかったのです。

バブル経済崩壊の不況が、さらに顕在化してきていた時期でもあり、既成の価値観の揺らぎや崩壊とともに、時代の変革が、人々の身に降りかかってきた時代でした。

1997年(平成9) 不動産バブル崩壊で山一証券廃業。社長が泣き崩れた映像は学歴神話や終身雇用の崩壊を強く印象付けました。

1997年(平成9) 神戸連続児童殺傷事件。犯行声明は「透明な存在であるボク」で、この時代の自己喪失の象徴とみなされました。

1999年(平成11) 1986年(昭和61)の労働者派遣法の施行で幕を開けた派遣と言う労働形態が、この年の法改正により業種が拡大し、正規雇用中心のあり方がいっそう揺らいでいくこととなりました。2000年代半ばからはブラック企業と言う語も流布されるようになります。

2000年(平成12) 1991年(平成3)に起こった電通事件に判決が出、過労死と言う語が認知されるきっかけとなりました。

2000年(平成12/27歳) 新潟少女監禁事件や西鉄バスジャック事件が発生します。『引きこもり』がいっそう衆目を集めます。

2001年(平成13)世を震撼させた附属池田小児童殺傷事件が発生。

このように石田の青年期は、まさに昭和の価値観が崩れ去った時代でした。

石田徹也はどう生きたか

1973年(昭和48年6月)  静岡県焼津市に生まれました。
父親は焼津市議会議員も務めた方で、徹也は4人の男兄弟の末っ子でした。

幼少期には、こんなエピソードがありました。


<< 同じ格好で並んでいる人が怖かった。>>石田の言葉
これを最初に実感したのは幼稚園の登園初日、同じ濃紺の制服を着て、帰りの送迎バスを待って並んでいる園児たちを見た時だった。頭が沸騰するような恐怖感に襲われ、鼻血を流して倒れ保健室に連れて行かれた。その後も、恐怖の余り、どうしても降園児の列に並ぶことができず、物置やトイレなどに隠れては濃紺の行列が消えるの震えながら待っていた。
当然ながら集合場所に迎えに来た母は、私がいないことに気づいて、慌てて幼稚園に連絡し、園内は大騒ぎで私を探し出し、叱られながら園長先生の自家用車などで自宅に送ってもらうと言うことを繰り返していた。本当に迷惑な幼児である。でも本当に怖かったのだ。いや実は正直、まだ怖い。


親や先生からすると、手のかかる子供であったようですが、石田の芸術家としての根底を知るエピソードでもあります。

1980年(昭和55/7歳)焼津市立小川小学校に入学。
11歳の時に、小・中・高校生対象の公募『人権漫画ポスター』で最優秀賞を受賞。
タイトルは『弱いものいじめは、やめよう』でした。

1986年(昭和61/13歳)焼津市立小川中学校に入学、サッカー部に所属

焼津小、中学校では、郷土の歴史として、1954年にアメリカの水爆事件で被災した第五福竜丸事件について学んでいます。

石田は、子供の頃からこの事件に高い関心を寄せていたようです。そしてこの事件を書いた絵本、「ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸」を通して、画家ベン・シャーンを知ります。

ベン・シャーンは、市井の人々を共感と、尊厳を持って描き出した画家で、その姿勢に石田は大きな影響受け、ベン・シャーンのような画家になりたいと志すようになりました。

石田徹也はこんな画家
絵本「ここが家だ」

1989年(平成元/16歳)静岡県立焼津中央高等学校に入学
入学当初は学生生活に馴染めなかったようです。石田は両親の願いもあって、高校の普通科へ進学してはいますが、いつしか画家への志望を固めていました。

3年生の春から静岡中央美術研究所に通い始め、受験勉強にも力を入れるようになります。

美術予備校時代のスケッチブックや画用紙には、真面目な修練の跡が伺えます。

石田は小型のメモ帳を用意し、そこに自作デッサンの略図とともに、講師の好評や、自分の反省などを細かく記していました。

1992年(平成4/19歳) 武蔵野美術大学造形学部視角伝達デザイン学科に入学
当時はイラストレーターを目指していました。

大学時代は、友人たちに恵まれ、映画、音楽、小説など東京の先端的な文化を大いに享受しました。

学生時代の作品はベン・シャーンの影響が色濃いとされています。世田谷美術館で見たアウトサイダーアートなどにも衝撃を受けたようです。

石田徹也はこんな画家
『駐車場のドラマ』1994頃

1995年(平成7/22歳)大学4年生となり、将来の進路を定める時期を迎えていました。

この年、『第6回グラフィックアート 3.3m2(ひとつぼ)展』に応募し、グランプリを獲得しました。

このコンクールは当時イラストレーターの登竜門とされ、しかも優勝者には1年後の個展が約束されるものでした。

当時のメモ帳で、石田は赤塚不二夫の名前をあげながら、「悲しみを知り尽くした人はナンセンスへ向かう。とても暖かい。僕の目指す方向性」と記しています。

受賞を機に、石田には進むべき道が少し見えてきたのかもしれません。

1996年(平成8/23歳) 「第63回毎日広告デザイン賞」で優秀賞を獲得

この公募点は企業が課題を出し、それをテーマに応募者が広告デザインを提出するものでした。

学友の平林と共同でビール会社の課題に取り組み、その構想を練る中で、後の石田作品の特徴を決定付ける要素、つまりサラリーマンと何かが合体したモチーフが初めて形となって現れます。

最高賞ではありませんでしたが、この受賞は石田の方向性を力強く後押ししたと思われます。

ビアガーデン発
石田徹也はこんな画家
居酒屋発
石田徹也はこんな画家

1996年(平成8/23歳)3月に武蔵野美術大学を卒業

デザイン事務所の採用試験を受けるがうまくいかず、前年の「ひとつぼ展グランプリ受賞」の個展開催のため、就職はせずに画家として活動することを決意します。

折しも、世は大卒の採用率が急落し、就職氷河期が始まった頃でもありました。

同年8月からアルバイトを始めるようになり、コンビニの店員や警備員などをしながら絵を描くようになります。

1996年(平成8/23歳)10月7日〜18日、第6回グラフィックアート『3.3m2展』グランプリ受賞者による個展、石田徹也展『漂う人』が開催されます。

これは、石田の美術界に散らしめた初個展でした。石田はこの展覧会に向けて1年間全制力を注いだのです。

石田徹也はこんな画家
『飛べなくなった人』1996

「牛丼屋で食事をする時、自分がまるでガソリンスタンドに入っていく車のように感じる。その理由は食事と言うより燃料補給に近いからだ。」石田

石田徹也はこんな画家
『燃料補給のような食事』1996

1997年(平成9/24歳) 画業に没頭するため、東京都文京区千駄木に転居します。

風呂なし、トイレ共同の古く安い下宿屋のワンルームで制作と寝るためだけの最低限のスペースでした。付き合っていた恋人とも幸せすぎて絵が描けないと言う理由から分かれています。

全てを絵に注ぐ、まるで求道者のような生活が始まったのです。同年年9月のノートには「もっと孤独の深淵を見よう」と記されていました。

1999年(平成11/26歳)6月ごろ神奈川県相模原市へ引っ越しします。

2度目の個展に展示する大型作品を制作するためでした。制作スペースを確保できる広さを求めるには郊外へ行くほかなかったのです。

転居しても、ひたすら制作し続ける生活は変わりませんでした。

アルバイトは警備会社の交通誘導を主に行い、終日工事現場で働き、夜間や休日に集中的に制作してようです。厳しい現場経験を反映してか作品にはサラリーマンが描かれることが少なくなり、様々な人が登場するようになります。

石田の関心は、教育、医療、消費社会、工事現場、個人の部屋など、より多様な社会へと広がっていきました。作品は、社会を映し出す鏡として、より現実感を伴うものとなっていきました。

1999年(平成11年/26歳) 9月に現代アートの画廊であるギャラリーQで2度目の個展を開催します。

その挨拶文を推敲する中で、石田は次のように記しています。

他人の自画像 最初は自画像だった。弱い、自分、情けない自分、不安におびえる自分をギャグやユーモアで笑えるものにしようとしていた。笑えるものとなったり、余計に悲しいものとなったりした。現代人に対する風刺や皮肉と受け止められることもあった。そう思って続けていって、消費者、都市生活者、労働者、日本人と拡がってきた。自分が感じることのできる人物へと自絵の中の人物は変わってきた。拡がってきた。」

2001年(平成13/28歳) 2月、VOCA展に推薦されて出展し奨励賞を受賞。

VOCA点は現代アートの平面作品における若手作家の登竜門とされる展覧会です。出品作品はこれまでの集大成と言え、今後の作風を展望する2点でした。

石田徹也はこんな画家
VOCA展出品作品

2005年(平成17/31歳) 5月23日早朝、三鷹市において列車にはねられて死亡。享年31歳という若さでの惜しまれる死でした。

その際、自宅アパートから150点近い作品が発見されています。

死因は、警察で事故として処理されており、憶測すべきことではないようです。

ここに、学生時代からの友人の言葉を付け加えておきます。

「石田くんはアートシーンでうまく立ち回っているアーティストが嫌いで、精神を病んで結果的にアーティストになったような人が好きだったように思えます。ゴッホも好きでした。芸術家にしても小説家にしても石田くんの好きなアーティストには自殺した人が多かったです。石田君には自殺の美学があるかもしれない、と学生時代から思っていました。」

石田徹也の作品と変遷

石田作品は、いくつか象徴的な特徴が見て取れます。一つずつご紹介していきます。

閉じこもる人の絵

石田の初期の作品には、箱状のものに閉じこもる人物がよく描かれています。

石田は幼少期に影響を受けた絵本として、先程のベン・シャーンとともに「おしいれのぼうけん」をあげています。

この絵本は、罰として押し入れに閉じ込められた幼児2人が友情と勇気で試練を乗り越える話です。

石田徹也はこんな画家

石田は安部公房の小説もよく読んでいたようで、「箱男」を思わせるスケッチもいくつか残しています。

閉じこもる人の作品は、80年代の世相にも感化されたものでしょう。

閉じこもるしかない社会の厳しさを強く感じさせます。

かといって、中の人物は穏やかで、もがき苦しんでいるようには見えません。

一種の母体回帰なのでしょうか。

「いっときの安らぎを得て、再び社会へ」という願いがあるのかもしれません。

石田徹也はこんな画家
『無題』1995

サラリーマンの絵

石田作品といえばサラリーマンの絵と言って良いくらいで、サラリーマンは代表的なモティーフでした。

特に、初個展『漂う人』には、サラリーマンの絵がずらりと並んだとのこと。

高度成長期のサラリーマンは、猛烈社員・企業戦士などと呼ばれ、哀愁の中にも夢に向けて頑張る存在でした。

確かに私も、当時は将来は良くなっていくという感覚で過ごしていました。

しかし、バブル崩壊後、リストラの嵐が吹き荒れ、学歴神話、年功序列、終身雇用といった規制概念が崩れ去ってしまいました。1990年(平成2)には社畜と言う流行語が生まれているほどです。

石田の描く何かと合体したサラリーマンは、全員同じ顔をしており、元気がなく、悩んでいるようにも見えます。

また、中高年や女性はあまりおらず、ほとんどが一人の若い男性で没個性的な容姿です。そのため、画中の人物は、見る人にとって自身を感情移入しやすい対象でした。

生気のなさと匿名性が、観る人に共感と共に強い衝撃を与えたのです。

当時、すでにサラリーマンとして経験を積んできた私には、決してそんな気持ちを持っていませんでした。私同様に多くの人たちがそうであったと思います。

だから若者たちの苦悩を知って、時代の変化に気づき、真摯に向き合い始めたのです。

石田徹也はこんな画家
『引き出し』1996
石田徹也はこんな画家
『荷』1997

合体人間の絵

石田が作家活動を行った約10年のうち、前半は合体人間を主体とした作風でした。

それは、石田作品の最大の特徴ともいえます。

合体人間のイメージは、漫画やアニメなどで見慣れたものであり、特段目新しさはありません。

それでは、石田はどのように表現したのでしょうか。

ここで面白い比較を見つけました。

そこでは、漫画・筋肉マンに登場する『ベンキマン』と石田の『トイレ逃げ込む人』とを比べていました。

ベンキマンは便器の形態や機能との合体ですが、石田の場合は便器だけでなくトイレと言う社会状況も含めた合体というのです。

この石田作品では、サラリーマンがトイレに逃げ込んでいます。しかし、そこも安楽の場ではなく、やむなく便器に逃げ込んだ様子を表しています。

石田作品はその合体状況が社会的な背景を伴っているのです。

トイレに逃げ込む人
石田徹也はこんな画家
ベンキマン
石田徹也はこんな画家

この絵では、顕微鏡と合体しています。

時は就職氷河期期、顕微鏡と化した面接官が履歴書前に置いて就職希望者をジロジロと見ています。一方、下の鏡には見られて顔が引きずっている面接者が写っています。

しかし、面接官自体も顕微鏡なので実は見られる存在なのです。

石田徹也はこんな画家
『面接』1998

同化した肉体の絵

石田が作家活動を行った約10年間の後半では、前半とは違って合体人間は少なくなります。

石田にとって必要不可欠なモチーフではなくなっていったのです。

それは合体と言うより、そのものとの融合や同化といった方がふさわしい状況となります。

社会や環境と同化した身体は透明であったり、中空であったりしています。

それは、社会に同化する自分/他人だったのです。

石田徹也はこんな画家
『捜索』2001

後半期の作品について、石田は28歳の時に次のように語っています。


2年前から意味を止めて、イメージで描いている。

メッセージとかあると何か違うかなと感じて。駅前で拡声器でワーワー行ってるのと変わらないかなって思っちゃって。自分の狭い視野で押し付けてるような。なんだか嫌になって。

結局絵って見る人によるんです。どんな風にでも。その人の生きてきた時間とか、その時の感情とかで、絵は絵じゃなくなるんですよ。僕の絵を見て笑っている、怒っている、悲しがっている、そういう人が同時にいるのが理想。

何かずっと描いていて、描くのが僕だって思う。描かないと僕じゃないような。

最後に、振り返って

私は、残念ながらベン・シャーンが第五福竜丸事件を絵本にした『ここが家だ』を読んだことはありません。こんな、お話のようです。


1954年(昭和29)3月1日、日本の遠洋マグロ漁船の第五福竜丸がマーシャル諸島のビキニ環礁で創業中、アメリカによる水爆実験で被爆したという、実際の事件をもとに作られた絵本です。

乗員は23名で静岡県の焼津港を出航後、マグロの群れに会い、ちょうど漁をしているところでした。突然、空が真っ赤に燃え爆音。そして振り注いでくる死の杯に覆われました。船員たちは何とか自力で2週間後に故郷にたどり着きましたが、即入院したとのこと。

ベン・シャーンは船員の中で無線長だった久保山さんの姿を描きました。娘を抱く姿、ベッドに横たわる姿など、忠実であるだけに、内容は重いものです。

一方、当絵本の作家であるアーサー・ビナードさんは、家という言葉で、故郷・船・海、そして私たちの生きる世界を表しています。

ペンシャーンの線から絵から読者それぞれが、悲しみの重さを想像する事ができます。人間の愚かさ、悲しみ、本来の生の美しさまでも、絵本は訴えかけているのです。


石田は、郷里の過去の出来事として事件を知り、この絵本に触れたことは先に述べた通りです。

とはいえ、このような内容を自分なりに解釈し、自らの生きる姿に重ねていったことは、平凡な私にとっては驚嘆に値することです。

石田が、中年、シニアとなった時にどのような作品を描いたのかと考えると、ワクワクしますね。

もしかしたら、私のようなシニアにも貴重な提言を与えてくれたかもしれません。

石田徹也については、この辺で終わりにします。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

以上は、別冊太陽「石田徹也」という本を参考にさせていただきました。ありがとうございました。

当ページを読んでいただくことが、少しでも石田徹也の理解につながれば幸いです。

もっと知りたくなった方は、先ほどの本を読んでください。おすすめです。


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第二の人生に入り、軽い仕事をしながら、風景画を描いて過ごしています。現役の時に絵画を始めてから早10年以上になります。シニアや予備軍の方々に絵画の楽しみを知っていただき、人生の楽しみを共有できればとブログを始めました。