”マリー・ローランサンはこんな画家”と題して、彼女の生涯と作品の魅力に迫ります。
マリー・ローランサンをご存知ですか?
有名画家なので作品を観た方は多いかもしれません。
しかし、彼女の作品に込めた思いを知る方は少ないのでは!
一つ一つ解きほぐしていきます。
時代に翻弄された
マリー・ローランサン
の生涯と作品
1883年10月31日 ー 1956年6月8日 72歳で亡くなる
話は、20世紀初頭にさかのぼります。
モンマルトルのアトリエ長屋「洗濯船」に、ピカソをはじめとした若き画家たちが集っていました。
日本で言えば、手塚治虫や藤子不二雄などが集っていた「トキワ荘」ですね。
この「洗濯船」において、画家たちは絵画史上に残る大変革を起こします。
マリー・ローランサンもここで活動する一人でした。
ご存じのように、マリーの作品は、ピカソの、あの強烈なイメージとは全く異なっています。
しかし、未だ男性的価値観の強い時代にあって、この「洗濯船」での交流がマリーの画家活動の原点になりました。
「洗濯船」を原点にしつつ、どのように自らの世界観を築いていったのでしょうか。
まず、マリーが生きた時代背景からたどります。
ローランサンの生きた時代
普仏戦争(1870〜71年、現在のドイツとフランスの戦争)での屈辱的敗北によって、フランスの首都・パリは一時期かなり荒れ果てていました。
しかし80年代に入ると、フランスは、ドイツとの関係修復が進み、また植民地が拡大して国庫が徐々に潤い、パリは輝きを取り戻し始めます。
マリーはそんな時代に生まれ、成長しました。
19世紀末になると、産業革命が進んで都市に消費文化が生まれ、パリは「ベルエポック」の時代に入ります。
1889年にはパリ万博が開催されています。
直訳は『美しい時代』で、19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代を指します。
芸術ではアール・ヌーヴォー『新しい芸術』が開花し、装飾品、工芸品、建築など多岐にわたって広まりました。
ミュシャやガレは有名ですね。
しかし、華やかな時代は続きません。
1914年(31歳):オーストリア=ロシア帝国が、皇太子暗殺事件を契機にセルビアに宣戦布告します。
普仏戦争のリベンジの機会とばかりにフランスも参戦、一方ドイツもフランスに宣戦布告します。
同盟に加わっていた列強諸国も参戦して第一次世界大戦(1914ー1918年)が勃発します。
この時に、ドイツ人を夫ととし、本人もドイツ国民となっていたマリーは、戦争によって人生が大きく翻弄されます。(詳しくは後述)
フランスは戦勝国となったため、ドイツから莫大な賠償金を見込めることとなり、1920年代には『狂騒の時代』へと向かいます。
そんなパリは憧れの都市となり、世界中から人々が集まります。
一方、戦禍で多くの若い男性が失われたため、女性が社会進出する機会が得られるようになります。ちょうど、マリーが30歳代の頃です。
この絵はマリーが22歳の時の自画像です。
「画家として生きていく、自信に満ちた感情」を表しているようです。
1939年(56歳):第二次世界大戦が勃発し、再びマリーの人生が翻弄されるようになります。
初の本格的女性画家の人生
1883年:マリーはパリ・シャブル通り63番地にて生まれました。
マリーの父は、フランスの国会議員で、母親とは不義の関係でした。
母は、この男よりも22歳年下で、ノルマンディ出身者でした。
母はお針子仕事で生計をたて、また男から金銭的な支援を得てマリーを育てます。
1893年(10歳):公立の名門リセ・ラマルティーヌに入学します。日本の中・高等学校に相当する学校です。
母は、マリーが教師になることを望んでいました。
というのも、この時代のキリスト教的倫理観では女性の重要な仕事は家事と子育て、そして夫の補佐であり、女性が自立して生きる道は教師や修道女、歌手や女優ぐらいに限られていました。
そんなある日、マリーは乗合馬車の2階席から、偶然に『家具付きの貸家』の中の人たちを見かけて、突然画家になる決意をします。
窓の中には「着物を脱いだ女性」や「バンジョーを弾く男性」などが丸見えだったようです。
ベルエポックのパリにおいて、伝統に縛られず自由奔放に生きる人たち、
そんな姿を見てマリーの芸術魂が呼び起こされました。
この作品が、画家になってから描いた『家具付きの貸家』です。
1901〜03年(18〜20歳):国立セーヴル製陶所の絵付け講習を受けたり、パリ市立の学校でデッサンの講義を受け、画家への道に進んでいきます。
1907年(24歳):マリーは画家を目指して、モンマルトルの洗濯船で活動していました。
ピカソも「洗濯船」で活動しており、この年に作品「アヴィニョンの娘たち」を完成させます。
この作品は、アカデミズムの全ての規範・「寓話性や遠近法、リアリスム」を排除したもので、絵画史上に残る「キュビズム運動」へと繋がっていった作品です。
マリーは「自分もこのような時代を変革する作品を描きたい」と、終生かけての挑戦が始まります。
しかし、マリーは後にこんな言葉を残しています。
「私がキュビズムの画家にならなかったのは、それは私にはできないことだったから。私はキュビズムの画家にはなれなかったけど、彼らの探究には夢中になりました」
1908年(25歳):マリーの最初の群像絵画作品「芸術家の仲間」を制作。
1910年(27歳):ピカソの影響を感じさせる「乙女たち」を制作。
これらの2点が高額で買い取られたことから、マリーは「唯一の女性の前衛画家」として世界中に名を広め、画家としての礎を築きます。
パリ・モンマルトル地区にある有名アーティストが暮らしたアトリエ兼住宅です。ギシギシときしむ廊下の音がセーヌ川に浮かぶ共同洗濯場と似ていたことから、そう名づけられました。
ゴーギャンやピカソも住んでいました。マリーは住んではおらず、通っていたとのこと。現在もその一部が改築されてアトリエとして使われています。
1914年(31歳):マリーはドイツ人男爵のオットー・フォン・ヴェッチェンと結婚します。
結婚前、マリーはピカソから作家のギョーム・アポリネールを紹介され、二人は恋人の関係になっていました。
しかし、マリーが有名になるにつれ、いつしか二人の関係に亀裂が入り別れます。
次の絵はそんなアポリネールへの思いを描いた作品です。
マリーはアポリネールを自分を導いてくれる船の漕ぎ手として表現し、一方、背後には別れの象徴であるミラボー橋を描いています。
まだ愛していたのですね。
1914年(31歳):結婚からわずか6日後、新婚旅行中にサラエボ事件が発生、第一次世界大戦へと進んでいきます。
夫と同じドイツ国民になっていたマリーは、夫妻で当局からスパイ容疑をかけられて、スペインへ亡命します。
大戦中、マリーは数々の苦難を味わってうつ状態となり、ほとんど作品を描けなくなります。例えば、こんな具合いでした。
- オットーは、祖国に貢献できないことを悔いて、アルコールと女遊びに溺れます
- パリの全財産が敵性財産として没収されます
- 友人たちが次々と重傷を負ったり、戦死します
- 前線で重傷を負ったアポリネールが、のちにスペイン風邪で亡くなります
- ピカソが「マリーはスペインへ行ってから才能が枯渇した」と吹聴していることを耳にします
終戦後、夫妻は金銭的問題からオットーの実家のあるドイツ・デュッセルドルフに移ります。
転居後しばらくして、マリーは再び大作も手がけるようになり、経済的にも安定してきます。
しかし、荒んだオットーとの関係は修復できず、マリーは単身パリに戻ります。
1925年(42歳):家政婦として、シュザンヌ・モローを雇うようになります。結婚したシュザンヌの姉の代わりでした。
シュザンヌは、大変マリーを尊敬し、献身的に尽くしました。
ただ、マリーによかれと思ってのことですが、彼女はマリーの住まいで君臨するようになります。
そしてマリーが亡くなる2年前に、ついにマリーの養女となります。
この絵は、シュザンヌ・モローを描いた作品です。
母親のような深い愛情が感じられます。
1939年(56歳):第二次世界大戦が勃発し、マリーの作品は退廃芸術とみなされます。
マリーは一旦疎開します。ただし、すぐにパリに戻ります。
そんなある日、ユダヤ系の友人がナチスに捕えられます。
画壇で影響力を持つマリーは、ナチスからVIPの扱いを受けていたため、友人の投獄中、彼女はせっせと物資を送り援助しました。
しかし友人は亡くなり、マリーを深く苦しめ悲しませます。
数々の辛い経験をしたマリーは、戦後は華やかな社交界から離れて宗教に安らぎを求めます。
戦後、マリーはドイツ軍に接収された自宅を取り戻すために、長い間、訴訟に多くの時間を削がれました。
1955年:自宅回収の裁判に勝訴し、やっと「マリーの言う本当の家」に戻ることができにもかかわらず、
1956年6月8日(72歳):終の住処で心臓発作のために亡くなります。
ローランサンの作品の変遷
ピカソやブラックは「洗濯船」において「キュビズム運動」を始めます。
マリーは、ピカソの作品「アヴィニョンの娘たち」の重要性をすぐに認識しました。
しかし、一方でキュビズムは自分が求めているものとは違うと感じていました。
特に、次のような点に違和感を感じました。
- 色彩に重きを置かずに形を追求する
- 直線を多用する
マリーの作品は、色彩豊かで、柔らかな曲線を使った絵です。
方向性の違いは明らかで、マリーは独自の絵画世界を求めていくことになります。
ここからは、マリーの特徴的な作品を見ていきます。
作品「馬になった女」 1918年 油彩
マリーは子供の頃から動物園へ行くのが大好きで、大人になってからも度々訪れています。
スペイン亡命中でさえも、そうしていましした。
動物園で最も興味をそそられるのは、いつも馬でした。
なのでマリーは、サーカスの情景や神話の題材などに、たびたび馬を描いています。
この作品は、スペイン亡命中の辛かった思いをぶつけて描いたものです。
自身の境遇を、不幸な傷ついた馬に投影しました。
マリーの最高傑作の一つです。
作品「舞踏」1919年 油彩
スペイン時代の集大成とも言える傑作です。
ピカソの作品「アヴィニョンの娘たち」を意識した作品です。
マリーはいつも「あのような絵を描きたい」と語っていたそうです。
この絵では、ピンク色の華やかな衣装と厳粛で清楚な青の衣装を対比させることで、戦前と戦中の二つの世界を表しています。
アポリネールの死によって受けた激しい衝撃と悲しみの最中に描かれました。
ギターを持った女性はマリー自身と言われています。
戦争が終わっても未だ癒えない心の傷を表したのでしょう。
作品「私の肖像」1924年 油彩
1920年代の「狂騒の時代」において、ローランサンの作品は一世を風靡することになります。
というのも、アール・デコ様式が世界中に広がって、室内装飾、特に絵画に注目が集まり、それに応えたのがマリーだったからです。
彼女の肖像画作品を飾ることは、人々の間でステータスでした。そのため、たくさんの肖像画の依頼が押し寄せたのです。
この時に、マリーは莫大な富を築きました。
この作品は、その頃に描かれた自画像です。
この人物は化粧っけのない顔で、髪もボサボサです。
やや頬がこけて見え、まるで仕事に追われての徹夜明けのようです。🤗
マリーは、これを制作した2年前にオットーと正式に離婚しています。
画家活動が充実すればするほど、何か寂しさ・虚しさを感じていたのかもしれません。
作品「舞台稽古」1936年 油彩
積み上げてきたマリーの色彩感覚が一斉に花開いた作品です。
- スペイン時代には、暗いグレーとピンク、そしてブルーが主であった
- ドイツ時代には、森をイメージした緑色を使うようになる
- フランスに戻ってからは、嫌いであった黄色や赤色も多用するようになる
こうした色の変化について、マリーは「大きな革新だと思った」と記しています。
カラフルな作品を好む私には、この絵は最もお気に入りの作品です。
作品「アルルキーヌ(女道化師)」1940m年 油彩
第二次世界大戦が始まって間もない頃に描かれた作品です。
マリーは大戦中もパリに住んでおり、戦中の作品は数少ないです。
この作品は、華やかな色彩が抑えられ、再び、マリーが好きなブルーとグレー主体で描かれています。
貴重な一品です。
作品「三人の若い女」1953年 油彩
この絵は、10年もの歳月をかけて制作された作品で、マリー・ローランサン芸術の集大成と評されています。
ピカソの「アヴィニョンの娘たち」への憧憬、激動の時代を生き抜いた彼女の人生、女性ならではの感性、それら全てが結実した作品です。
まさに「ローランサン・スタイル」の完成ですね。
ちなみに、背景には元の恋人アポリネールを暗喩するミラボー橋が描かれています。
作品「アリスの眠り」1930年
最後に多色刷りのリトグラフィ作品をご紹介します。
これは、絵本「不思議の国もアリス」の挿絵として使われたものです。
油彩画とは違った良さがあるでしょ。
マリーは、このような作品もたくさん描いています。
マリー・ローランサンが観れる美術館
かっては長野県の蓼科高原にマリー・ローランサン美術館がありました。
世界でも初のマリー・ローランサン専門の美術館でした。
私もかなり前に一度訪れたことがあります。
しかし、残念ながら2011年に閉館しています。
一時期、ホテル・ニューオータニ内に再度開館されましたが、こちらも2019年に閉館となっています。
ということで、日本にはマリー・ローランサン専門の美術館は現在のところありません。
ただ、ひろしま美術館のように、彼女の作品を保有している美術館はいくつかあるようです。
人気画家ですので、出会える機会は多いかと思いますので、お楽しみに!
最後に
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
先にも述べましたが、マリーは「洗濯船」でたった一人の女性前衛画家でした。
なので、同時代の多くの男性画家や作家たちの注目を集め、彼らの作品のモデルになりました。
この絵はアンリ・ルソーの作品で、マリーと当時の恋人・アポリネールが描かれています。
ルソーも「洗濯船」と接点があったのです。🤗
実は、ピカソとルソーは交流があり、ピカソはルソーを大変高く評価していました。
※次の本を参考にさせていただきました。ありがとうございました。詳しくはこちらを!
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