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油彩で花と街の風景を描いています

”風景画にも想像力を”「赤毛のアン」に学ぶ、想像に富む絵

”風景画にも想像力を”「赤毛のアン」に学ぶ

「”風景画にも想像力を”」というテーマを取り上げました。

絵を見た人が「写真のようですね」という、よくある感想。

お褒めの言葉でしょうが、少し微妙?

風景画であっても、個性的で想像に富む絵を描きたいです。

名著「赤毛のアン」から風景と想像について考えました。

想像の翼を広げて風景画を描く

私は風景画を描いていますが、

「風景画であっても、人を惹きつけ、印象に残る、個性的で想像に富む絵を描きたい」

と、いつもそんな風に考えています。

多くの方がそんな悩みをお持ちなのでは?

ただ私にとって、特にこの想像という言葉が大変苦手なのです。

想像とは、次の意味をもつ言葉です。

  • 実際に見たり聞いたりしていないことを、頭の中でたぶんこうだろうと思い描くこと。
  • 現実からかけ離れていることを考えること
  • まだ確認・実現していないことを推しはかること

現在、私はシニアの一員です。

まさに、頭が硬くなりがちなシニアです。

実際、長い間の会社や家族生活の中で、想像という言葉をほぼ封印してきました。

日々現実に向き合うのに精一杯でしたし、想像など、あまり必要でもなかったのです。

とは言え、絵描きを目指す以上、今はできる限り想像の翼を拡げた絵を描きたいと思っています。

数年前に初めて、アニメで「赤毛のアン」を観る機会がありました。

”風景画にも想像力を”「赤毛のアン」に学ぶ
主人公・赤毛のアン

第一作を観た時にアンの想像力にすっかり引き込まれてしまい、全編を一気に観てしまいました。

「これくらいの想像力がないと、人を惹きつける絵を描けないのかも知れない。」

単純かも知れませんが、そんな風に思うようになりました。

それ以来、絵を描きながらいつも、「自分もアンのように想像の翼を拡げられたら!どうやったらそうなれるのか!」と考えています。

ところで、名著「赤毛のアン」がNHKの「100分で名著」でも取り上げられました。

そこでは、この本の愛読者でもある茂木健一郎さんが「赤毛のアン」を脳科学者の観点から分析していました。

さすがに脳科学者だけあって、深い洞察がなされており、絵画に活かせる大変貴重な知見をいただきました。

本ページで、ご紹介させていただきます。

本になっていますので、詳しくはそちらで。

モンゴメリ 赤毛のアン コンプレックスを力に変える (NHKテキスト 100分de名著 2018年10月) [ 茂木健一郎 ]

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感想(1件)

「赤毛のアン」とは

「赤毛のアン」は、今では世界25カ国以上で愛読されています。

日本では1952年に村岡花子さんの翻訳で初刊が発行されました。

もう読まれましたか?

まだ本を読んでいない方、アニメなどを観たことのない方に向けて、先にあらすじや作者のことについて触れておきます。

簡単にあらすじなど

茂木氏は「赤毛のアン」を次の一言で的確に表現しています。

「アンは環境に恵まれない子供として登場し、想像力という武器を用いて自分を取り巻く世界と対峙していく。」


この物語は、次のシーンから始まります。

「11歳の女の子・アンは、孤児院から里親に引き取られるため、島に渡って片田舎の駅に到着します。そして、付き添いと別れて一人駅に降り立ちます。」

里親となるのは、マシュウ(兄)とマリラ(妹)と言う、やや変わり者のクスバート兄妹で、マシュウが駅に迎えにいきます。

実は、彼らが望んだ子供は、女の子ではなく男の子でした。

彼らは、「そろそろ力が衰えてきたマシュウ」を助ける手として、男の子を望んでいたのでした。

しかし、何かの手違いで、女の子のアンが連れてこられたのです。

アンは、そんな大ハプニングを持ち前の想像力で乗り越え、無事にクスバート家「緑の切妻屋根、グリン・ゲイブルス」に置いてもらうことになります。

そしてアンの想像力が、周囲の人々に次々と影響を与えていきます。

例えば、

「アンがその感動をあらん限りの言葉を駆使して表現するおかげで、マシュウにもマリラにも見慣れた景色が鮮やかに色づき、生き生きと呼吸を開始するように見え始めました。」

また、「学校では「遊びのときにはアンの想像力が、歌を歌うときはアンの声が、昼休みの朗読にはアンの演劇の才能が」、教室のみんなを惹きつけました。」茂木氏

アンはマシュウとマリラに大変愛されて育ちます。

そして、彼らの期待に応えて優秀な学生になり、さらに自身の目標を追い求めていきます。

最後は「マシュウが亡くなり、目が不自由になったマリラ を助けるため、大学進学をきっぱりと諦め、地元に戻って教員になります。」

そこで話が終わります。

第二巻以降も続きます🤗

”風景画にも想像力を”「赤毛のアン」に学ぶ
グリン・ゲイブルス

作者ルーシー・モード・モンゴメリ

「赤毛のアン」はモンゴメリが書いた初の長編小説です。

そして、この物語は、モンゴメリ自身のことでもあります。

モンゴメリは1874年11月31日にプリンス・エドワード島の小さな村クリフトン(現在のニュー・ロンドン)で生まれました。

モンゴメリが1歳9ヶ月の時に母親は結核で亡くなっています。

彼女は、そんな年齢であったにもかかわらず、お棺の中に眠る母の姿を覚えているそうです。

当然のことながら、モンゴメリはその時、何を意味するのかもわからず悲しみを感じなかったと語っています。

彼女は母方の実家に預けられ、父は商売の関係で単身カナダ中部に移ります。

母の温もりがない中、保守的で頑固な祖父母から行儀作法を厳しく躾られたり、父親の元に滞在した時には、父の再婚相手から子守りや家事を押し付けられたりと、多感な時期に辛い経験をしています。

それでもモンゴメリは詩人だった大叔父や物語の上手な大叔母たちから、芸術や文学に関する薫陶を受けました。

カレッジを卒業後に教職につきますが、20代半ばには祖父が亡くなり教職を諦めて祖母と暮らすため家に戻ります。

母なき子として、辛い経験を重ねながら育ったモンゴメリにとって、アンはまさに分身のような存在でなのです。

プリンス・エドワード島とは

この島は、カナダの大西洋岸・アメリカとの国境近くにある、セント・ローレンス湾に浮かぶ島です。

今では世界中の「赤毛のアン」ファンの憧れの地です。

アンが想像を巡らせた素晴らしい景色が広がっています。

ここは、アメリカの偉大な画家「アンドリュー・ワイエス」が過ごした、アメリカ・メイン州の近くにあります。

メイン州は、北海道とほぼ同じ緯度にあり、ニューヨーカーなどの避暑地だそうです。

このあたりの雰囲気が大体イメージできますね。

私の夢は「ワイエス、アンめぐりの旅」をすることです。

”風景画にも想像力を”「赤毛のアン」に学ぶ
プリンス・エドワード島
”風景画にも想像力を”「赤毛のアン」に学ぶ
島内の赤土の道

アンの想像力

それでは、本題に移ります。

まずアンの想像力について例を挙げてみしょう。

物語の初っ端からアンの想像力がフル回転しますので、驚かないでください。🤗

それでは物語へ!

アンが駅に到着しても、迎えのマシュウがまだ来ていませんでした。

マシュウの懐中時計が壊れていたのです。

しばらくして、マシュウが到着します。しかし、マシュウが探しているのは男の子なのであたりをキョロキョロとしています。

そんな時に、アンがマシュウに近づき名前を確認して、放った言葉がこれです。

「お目にかかれて、とても嬉しいわ。もう迎えに来てくださらないのじゃないかと、心配になってきたもんで、どんなことが起こったのかしらって、いろいろ想像してたところだったのよ。」

「もし、今夜いらして下さらなかったら、線路を降りて行って、あの曲がり角のところの、あの大きな桜の木に登って一晩暮らそうかと思ってたんです。あたし、ちっとも怖くないし、月の光を浴びて一面に白く咲いた桜の花の中で眠るなんて、素敵でしょうからね。」

「小父さんもそう思わない。まるで大理石の広間にいるみたいだと想像できますもの、そうでしょう?」

「それに今夜いらして下さらなくても、明日の朝はきっと迎えにきてくださると思っていたのよ」

想像力で、はちきれんばかりの赤毛の少女が、イキイキと表現されています。

そして、マシュウは、「実際は男の子を迎えにきた」のだと言えないまま、アンを馬車に乗せてグリン・ゲイブルスに向かいます。

アンは馬車の中でも、おしゃべり全開でした。

しかし、その途で

「まあクスバートさん、まあクスバートさん、まあクスバートさん」と3回叫んで、アンのおしゃべりがピタッと止まります。

と言うのも、そこには

「巨大なりんごの木が、ぎっしりと枝々を差し交わして立ち並んでいた。頭上には香り高い、雪のような花が長い天蓋のように続いていた。」

「枝の下には紫色の薄暮が一面に立ち込め、はるか先の方に、寺院の通路のはずれにある大きなバラ形窓のように、夕焼け空が輝いていた。」

「その美しさに打たれたかのように、アンは黙りこくってしまった。座席の背により、細い手を組み合わせたまま、うっとりとした顔を頭上の白い花に向けていた。」

並木道を通りすぎた後も、アンはうっとりしたまま声も出ません。

アンは、この道が地元ではありふれた名前で呼ばれていると知り、この道を「歓喜の白路」と名づけます。

”風景画にも想像力を”「赤毛のアン」に学ぶ
歓喜の白路をゆくマシュウとアン

さらに、神秘的な色を湛えた池の名が「バーリーの池」だと聞いて、「輝く湖水」と命名します。

やがて、クスバート家に着く頃にはすっかり日がくれていました。

アンは、グリン・ゲイブルスについて、こんな表現をします。

「木々が眠りながらお話ししてるのを聞いてごらんなさい。(略)きっとすてきな夢を見ているに違いないわ」

アンの特徴の一つに「歓喜の白路」「輝く湖水」「雪の女王」「ポニー」などと何にでも名前をつけたがる習性があります。

このことに茂木氏は次のように語っています。

「気に入った素敵なものに想像力で肉付けをし、さらに自分で名づけをすることで、それがアン自身のもの、アンの世界に属する一員のように感じられるのかもしれません。」

私は、「それがアン自身のもの、アンの世界に属する一員のように感じられる」と言う言葉に惹かれました。

想像に富んだ絵画とは、そういうことなのではないでしょうか!

「想像力で肉付けすることで、絵の風景が自分自身のもの、自分の世界に属する一員のように感じられる」こと

それが個性の表現であり、理想とすべき風景画ではないでしょうか。

結果として、観る人にとっても、その画家の個性として映るのだと考えています。

想像の大切さと現実

茂木氏は想像の大切さを語っています。

「アインシュタインは知識よりも想像力の方がはるかに重要であると語っています。」

「人間の脳にとっては、限られたものからいかに多くのことが想像できるかが非常に重要です」

アンは想像力をフル回転して、多くの人に影響を与えています。

それに対して茂木氏は、

「アンはまさにインフルエンサーです。他人に良い影響を与える資質はハーバード大学の入学試験でも重視されているそうです。」

一方で、

「一般的な傾向としては、想像力の強い人ほど、想像と現実との大きなずれの中で揺らいだり絶望してしまうことがあります。」

「溢れる感受性に彩られた空想の世界と、自分の身体性のずれが埋められずに、現実を受け入れて生きることが難しくなるのです。」

「ところがアンは、想像力に優れている一方で、置かれた自分の現実からスタートすることができます。」

「たとえ現状が人より遅れていようと、苦手科目に苦しんでいようとも、今あるここから始める、少しずつ努力するということができるので、自分の力で少しずつ現実を改善していくことが可能になるのです。」茂木氏

絵画の話に戻して、こんなふうに考えました。

絵の場合、現実に根ざさずに、想像だけが飛びすぎるのも考えものです。

想像を表現できる画力も必要でしょう。

また、絵のモティーフと調和の取れない想像を盛り込んでも、単に子供の絵になってしまうだけです。

さらには、想像を働かすには、「固定概念」や「恥ずかしさ」といった心の壁を乗り越える必要もあります。

アンが言う「想像の余地」とは

「赤毛のアン」に繰り返し出てくる表現に、「想像の余地」(scope for imagination)があります。

先ほど述べたように、グリン・ゲイブルスに到着してすぐに、アンはマリラから「男の子を欲しており、ここには置けない」と告げられます。

アンは大変失望し、泣き崩れます。

ただ、その翌日には、もうこんなことが、

「アンはグリン・ゲイブルスから見る6月の朝の美しさに感動し、「本当にここにいられないにしても、まあ仮にいられることにしておこう。ここは想像の余地があるもの」と、短い滞在を精一杯楽しむことに決めます。」

「寝室の窓から見える白い花をぎっしりつけた桜の木には「雪の女王」と命名。広間の窓口に置いてある葵の花を「ポニー」と呼んでいいか、とマリラに尋ねます。マリラがもし、ただ「女」と呼ばれたら嫌だと思うように、ただ葵と呼ぶのでは葵も気を悪くするーと言うのです。」

このようなアンの想像力の源について茂木氏は次のように解説しています。

「生後たった3ヶ月で自分のものと呼べるものを全て失ってしまったアンは、その後の11年間を想像力だけで生きてきたのです。」

「しきりと「想像の余地」という言葉を口にしますが、想像を働かせることができる場所ならば楽しい空間に変えることができるのです。」

ある時、アンと(心の友)ダイアナは、ダイアナの叔母であるミス・バーリーに豪華な自宅に招待されます。

その際に、

「アンは、「ビロードの絨毯」「絹のカーテン」と夢のような調度品の数々に酔ったようになりながら、アンは「こういうものの中では落ち着いた気分になれそうにない(略)あんまり素晴らしいもので、想像の余地がないのね。貧乏なものの幸せの一つはたくさん想像できるものがあるということだわ」

帰宅したアンは「とても素晴らしかったわ。あたしの生涯で画期的なことになると思うの。でも一番良かったことは家へ帰ってくることだったわ」

と、あらためて想像の余地を強調しています。

「想像の余地がある」とは素晴らしい言葉ですね。

私が巧みに撮られた美しい風景写真を好きに慣れないのは、このせいかも知れません。

そんな写真よりも、自分で見つけて感動した風景の方が好きです。

そこには想像を盛り込ませる余地があり、自分の風景にできる余地があるからでしょう。

絵画にする時に「想像の余地」が残されたままでは、平凡なよく見かける風景に堕してしまいます。

アンのような想像力が盛り込まれて初めて、絵画が燦然と輝き、人を魅了するのではないでしょうか。

個性を生かす難しさ

茂木氏は文中で個性についても語っています。

「人には長所も短所もあって、それぞれが補いあって生きている」

「コンプレックスを自分の個性として受け入れることができれば、それは自分を表現する武器にもなります。」

人生最大の課題は「自分の個性を受け入れること」だと言っても良いくらいです。」

一方、アンはどうなのでしょう。

「たいていのことは想像力で切り抜けているアンですが、「赤い髪ばかりは想像でもどうにもならない」と言っています。」

”風景画にも想像力を”「赤毛のアン」に学ぶ
髪を黒く染めようとして大失敗

なぜなら「赤毛はアンの「生涯の悲しみ」の象徴かもしれません。」

「アンは孤児であること、両親の顔さえ知らないこと、誰からも愛されたことがないこと、誰にも望まれたことがないこと、邪魔者扱いされたこと、学校にも行けなかったこと、貧しかったこと、そういった他人から憐みを受けそうな、あるいは蔑まされそうなことを、全てぎゅうぎゅうと赤毛に詰め込んだのではないでしょうか」

「おそらく、「みなしご」と言われても「家なし」と言われても驚かない。他のことは全てどおってことない、たいして気にもならないこととして片付けておいて、「生涯の悲しみ」は赤毛だけ、幸福になれないのは赤毛だからと思うことにしたのでしょう。」

そのためか、アンはクラスメートのギルバートや隣人のリンド夫人から赤毛をからかわれたり、ばかにされた時に急に取り乱して激昂します。

ギルバートとはその後5年間、話もしなかった程です。

「アン自身、赤毛という個性が受け入れられずに苦しんでいるわけですが、他人からふいに悪口として投げつけられると、赤毛に象徴された全ての悲しみが突つかれて、制御できない程の憎しみが体を駆け抜けるのではないでしょうか。」

これほど極端ではないにしろ、誰でも何かしらこんな思いや経験があるのでは!

モンゴメリは「コンプレックスを自分の個性として受け入れ、生かしていくこと」の難しさを表現したかったのではないでしょうか。

茂木氏は個性について、次のコメントを加えています。

「個性とは長所と短所が表裏一体となったものです。「自分の個性を活かそう」と発破をかけるばかりで、誰も「相手の個性を受け入れよう」としなければ、どんな個性も生きようがありません。」

「異なる個性同士が集まって、それぞれ自分の個性を発揮しながら一つのまとまりを成すのが社会です。」

「ですから、小さい頃から、詩の音読でも劇でも歌でも、何かを媒体にして自分の個性を表に出す機会を持ち、親友やライバルの発表を見て奮起したり、我がふり直すような経験を繰り返すことや、共に補い合いながら一つの作品を完成させることが、最高の学びをもたらすのです。」

お言葉、肝に銘じます。🤗

やり抜く力と独学の勧め

茂木氏はアンと作者モンゴメリの「やり抜く力」を高く評価しています。

「モンゴメリ〜は教職を続けながら、あるいは(実家の)郵便局の業務をこなしながら、作品を描き続けました。」

「それなりに原稿料をもらえるようになった頃でさえも10編のうち9編までは突き返されました。」

「それでも繰り返し繰り返しその原稿を送り続け、最後にようやく「原稿たち」も身の落ち着き場所を見つけ出すといった具合でした。」

「不屈の闘志がないと、とても耐え抜くことはできなかったでしょう。」

アンはさらにそれを喜びに昇華しています。

「こんなにいろいろ野心があってうれしいわ。限りがないみたいだけど、そこがいいんだわ。一つの野心を実現したかと思うと、また別のがもっと高いところに輝いているんだもの。人生がとても張り合いあるものになるわ」

”風景画にも想像力を”「赤毛のアン」に学ぶ
マリラと成長したアン

これに関して、茂木氏は心理学の面から言葉を加えています。

「近頃、心理学で注目されている言葉に「グリット(grit)」とい単語があります。」

「日本語では「やり抜く力」と訳されています。どんなに失敗しても、挫折しても諦めない強い意志は、モンゴメリとアンに共通しています。」

そして茂木氏は、モンゴメリが独学で名著「赤毛のアン」を執筆したことに対して、学習方法の面から掘り下げています。

「脳の研究する立場からすると、独学こそ本来の学のあり方とも言えるのです。」

「自分自身が興味を持っていることは、自分が一番よくわかっています。自分が苦手なポイントも、テストで失敗する前に自分で把握できます。何よりも自分自身でカリキュラムを組むことで、興味の対象を深く掘り下げることができます。」

「脳の学び方の潜在力を最もよく引き出すのが、独学なのです。自分自身で価値基準を設定して、それをクリアする努力を続ける。これが独学者の条件です。」

「特にクリエーターと呼ばれる人の中には、優れた独学者を多く見出すことができます。」

絵画の世界では、学んでいた師を去ることは良く耳にする話です。

先生の亜流だけでは、自分の求めるものはいつまでたっても得られないと思います。

また、次の課題が見つかった時に、別の解決手段が必要になります。

自分自身で価値基準を設定し、課題の解決方向を見つけクリアしていきたいですね。

最後に

私にとって「赤毛のアン」は、NHKの朝ドラ「花子とアン」(2015年)で身近な存在になりました。

「花子とアン」の放送当時は、アルジェリアで勤務していました。

アルジェリアでは日本語の放送局がNHKしかなかったので、この番組を観るようになり、段々と引き込まれていきました。

実は、私は普段、朝ドラを観ないのです。

今を思えば何か縁があったのですね。

そんな経緯もあって、茂木氏による「赤毛のアン」の解説書に興味を持ちました。

そして、あらためて「絵画において想像の翼を拡げる」ことの大切さ、そしてそのやり方、学び方のヒントをもらいました。

今後の絵画人生にきっと活かせると思いますし、またそれを活かしていきたいと思います。

このページが、風景画初心者の方々にとって参考になりましたら幸いです。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

他にもこんな風に絵のポイントについて取り上げています。こちらから確認してください。

絵画上達のポイント

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グランFgranf1765
第二の人生に入り、軽い仕事をしながら、風景画を描いて過ごしています。現役の時に絵画を始めてから早10年以上になります。シニアや予備軍の方々に絵画の楽しみを知っていただき、人生の楽しみを共有できればとブログを始めました。