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油彩で花と街の風景を描いています
※記事にはプロモーションが含まれています。

”蕗谷虹児はこんな画家”少女マンガや日本アニメーションの原点の人

蕗谷虹児はこんな画家

”蕗谷虹児はこんな画家”と題して、宮崎駿や手塚治虫など超有名アニメーターに多大な影響を与えた人をご紹介します。

虹児は、抒情的な少女像と叙情詩で知られ、現代少女漫画の原型とも言える人。

虹児は、少女を描いていましたが、少女のために描いてはいませんでした。

それは!

蕗谷虹児の作品になぜ心を揺さぶられるのか

謎多き、蕗谷虹児の生涯と作品とは!

蕗谷虹児    1898年(明治31年)〜 1979年(昭和54年) 享年80歳

蕗谷虹児(ふきやこうじ)は、大正~昭和期に活躍した、画家・イラストレーター・アニメーション映画製作者です。

日本におけるイラストレーションの芸術的地位向上に貢献した画家でもあり、現在でも、装丁・挿絵・少女画を描く作家に静かな影響を与え続けている人です。

ところで、宮崎駿、手塚治虫等は、蕗谷虹児作品に触発されて、アニメの世界に飛び込んだと言われています。

蕗谷虹児はこんな画家
代表作「花嫁」

蕗谷虹児は、竹久夢二と並び称されることも多いのですが、夢二とは全く違った思いで作品制作に取り組み、独自の足跡を残しました。

そんなところも含めて、虹児の生涯や作品に迫っていきます。

少年期の虹児

蕗谷虹児は、「感情を外に出さずに育った子供」だったのではと言われています。

1898年(明治31年) 12月2日新潟県北蒲原郡水原町生まれ、新潟県新田町(現新八田市)出身。本名は一男

父:傳末、母:エツ
虹児は、父が19歳、母が15歳の時に、両親の駆け落ち先で生まれましたました。弟二人。

子供時代、父は活版印刷業や新聞記者、印刷工などで生計を立てていましたが、酒に溺れアルコール中毒となり、一方、母は病弱で寝たり起きたりであったため、一家は大変貧しい暮らしでした。

1905年(6歳/明治38年)  新潟市の西堀小学校に入学します。
8歳の時に 母に絵の手解きを受け、絵を描き始めます。

1908年(9歳/明治47年)  一家は新潟大火で焼け出されました。

当時、母親は兄嫁の髪結いの店を手伝っていましたが、胃病で大量吐血し3ヶ月間床に着くなど、かなり弱っていました。 なので、虹児も家の手伝いをするようになります。

この頃から竹久夢ニの絵を投射するようになります。夢二の画風が母親をイメージさせたためでした。

1911年(12歳/明治44年)  新津尋常高等小学校高等科に進学。

同年に母が28歳で亡くなります。あまりに早逝であり、若くて、美しい母への追慕の情が後の作風に大きな影響を与えることになります。

母親の死により、家族はやむをえず離散し、虹児は新潟市内で丁稚奉公するようになります。丁稚奉公の傍ら、毎晩南画を学んでいました。


ここで一言

  • 貧しい生活環境
  • アルコールに溺れる父親
  • 27歳という若さで逝った、病弱な母
  • 新潟という豪雪により閉ざされる世界

これらから「感情を外に出さずに育った子供」という意味を本当に良く理解できます。思いを吐き出したくても、飲み込まざるを得ないですし、自然とそうなっていったようにも思えます。

のちの虹児作品に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。

蕗谷虹児はこんな画家
作品「お手玉」

画家の道へ

いよいよ虹児が画家の道へと進んでいきます。

1912年(13歳/大正元年)  奉公先の社長が虹児の恵まれた絵の才能に気づき、地域出身の日本画家「尾竹竹坡・おたけちくは」の弟子になるように勧めます。

虹児は竹坡のもとで内弟子として日本画を学ぶべく上京します。

この時、弱冠14歳!大正時代とはいえ、すごいです。

この社長は新潟市長もされた、桜井市作さんです。虹児の人生にとって大きな意味を持つ方ですね。

この頃は、浮世絵も勉強するべく、各時代の絵師の絵を頻繁に模写していました。

1915年(16歳/大正4年)   新潟市に一時帰郷した際、再婚していた父親が多額の借金でいよいよ生活に困窮していたことを知ります。

父の頼みで借金を返済するため、繁華街の映画館で看板絵師として働きました。

やがて借金を返済すると、父親の仕事の関係で樺太へ渡り、それを機に漂浪画家の生活を送ることとなります。旅の先々で絵を描いて売っていました。

この当時に、こんな言葉を残しています。

「僕は自分の一生の運命の糸をあまりに早くたぐりすぎはしなかったか(略)。今はその漂浪生活に身を置いているが、この先の自分を考えると世の中が恐ろしくなる。」

1919年(20歳/大正8年)   竹坡門下の兄弟子を頼って再び上京します。今度は、図案の会社に入社し、ここでデザインの修行をしています。

1920年(21歳/大正9年)   子供の頃からファンであった竹久夢ニを訪問し、スケッチを見てもらいます。なんと、夢二はすぐに雑誌『少女画報』を紹介、虹児は同誌への挿絵掲載デビューを果たすことになります。

そして抒情画家の誕生します。

抒情画家として活躍

1921年(22歳/大正10年)    『少女画報』『令女界』『少女俱楽部』などの雑誌の表紙や挿絵が大評判で、瞬く間に時代の寵児となります。やがて、夢ニと並び称されるようになっていきます。

蕗谷虹児はこんな画家 蕗谷虹児はこんな画家

1924年(25歳/大正13年)  『令女界』に発表した、詩画『花嫁人形』は、後に杉山谷尾の作曲で童謡にもなり、虹児の代表作となりました。

他にも9冊の詩画集を出版、「挿絵に少女の感傷的な余韻を残し、見るものに描き手の思いを伝える絵を手掛けたい」と、自らの絵を「叙情画」と名付けるようになります。

世界でも類を見ない新しいジャンルが誕生したのです。

蕗谷虹児はこんな画家
「秋の声」少女俱楽部口絵 1925

1925-29年(26-30歳/大正14年)  挿絵画家としての生活に飽きたらず、フランスのパリへ妻とともに留学します。

フランスの画壇で活躍する日本画家の藤田嗣司や東郷青児等と親交を深め、この時期に画家としての地歩を固めました。

下がパリ時代の作品です。積極的にサロンにも出品し、入賞も果たしています。

しかし、家庭の事情から、4年間で帰国せざるを得ず、再び日本で挿絵画家となります。

とはいえ、パリでの経験は虹児の後の作品に大きな影響をもたらせました。

蕗谷虹児はこんな画家 蕗谷虹児はこんな画家

1935年(36歳/昭和10年)頃から、戦時色が強くなり、虹児の画風が世相に合わなくなっていきました。

1945年(46歳/昭和20年)戦後再び、執筆を再開します。


のちに、虹児は東映のアニメーションにも参画するようになります。

そして、宮崎駿、手塚治虫、高畑勲など多くの著名な現代アニメーターに多大な影響与えることになるのです。

その辺りについては、別の方の記事をご覧ください。

私は、虹児の挿絵や絵画作品に目を向けるにとどめさせていただきます。

蕗谷虹児の代表作

蕗谷虹児は生活のために挿絵画家として絵を描いていたとも言え、思いのままに描けるようになったのは晩年になってからとのこと。

そのトップと言えるのが、『花嫁』でしょう。

『花嫁』 1968年(昭和43

この作品、素晴らしいでしょう。

蕗谷虹児はこんな画家
代表作「花嫁」

聞いたことがありますか?この歌。

この歌は、虹児が『令女界』に発表した、詩画『花嫁人形』の詩に、杉山谷尾が曲をつけて童謡にしたものです。

「金襴緞子の帯締めながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろう

文金島田に髪結いながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろう

あねさんごっこの花嫁人形は 赤い鹿の子の振袖着てる

泣けば鹿の子のたもとが切れる 涙で鹿の子の赤い紅にじむ

泣くに泣かれぬ花嫁人形は 赤い鹿の子の千代紙衣装」

蕗谷虹児はこんな画家 蕗谷虹児はこんな画家

難しい言葉が並んでいますが、昔の女性の悲しき人生を謳っています。

昔の女性は、少女時代だけはまだ誰のものではない自由がありました。蝶よ花よと育てられた娘さんもたくさんおられたでしょう。

しかし、結婚すると夫と家にかしづき、妻として母として生きるしかなかったのです。たとえ、どんな夫、義父母であっても。

この凛とした女性の絵から、「これからは嫁ぎ先の家に染まるんだ」という、花嫁としての決意が伝わってきます。

実は、向かって左の目にはうっすらと一粒の涙が描かれています。

厳しい人生を送り、早逝した母:エツを思いながら制作した作品であろうことは容易に想像できます。

エツもほっそりとした美しいかたであったとのこと。

『薔薇と少女』 1968年(昭和43

これも虹児70歳の時の作品です。

蕗谷虹児はこんな画家
作品「薔薇と少女」

パリから帰国後の挿絵

蕗谷虹児はこんな画家 蕗谷虹児はこんな画家

虹児が描きたかったものとは

虹児は「何を描くか」ではなく、「どこまで描かないか」について常に語っていました。

絵は、語りすぎてはいけない

見る人の心が、続きを描けばよい

美しいと思わせようとは思わない

絵は、静かであればよい

少女を描いているが、少女のために描いているのではない

時代に合わなくなったら、それでよい

虹児は、流行から外れることを、恐れていませんでした。

  • 今、評価されるか
  • 今、目立つか

よりも、

「あとから、そっと開けられるか」を大切にしていたのです。

蕗谷虹児の絵は今あらためて再評価されています。

現代は、SNS等によって情報だけでなく、感情までも大量に拡散される時代。

現代人は、「何かを感じろ」と迫られることに疲れ、「無理して感じなくてもいい場所」を必要としているのではないでしょうか。

蕗谷虹児の絵は、「強い時代」を生き抜くための絵ではなく、「疲れた時代」を支える絵なのです。

まさに今求められる絵なのでしょう。

竹下夢二とどう違う

竹久夢二と蕗谷虹児は、ほぼ同時代を生き、同じように若い女性像を描いています。ちなみに夢二が14歳年上です。

ご存知かとは思いますが、参考までに夢二作品・2点を添付します。

蕗谷虹児はこんな画家 蕗谷虹児はこんな画家

虹児は夢二の”上手さ”にややもすると影響されそうでした。なので、夢二の真似にならないようにと、かなり気をつけていたようです。

虹児は「誰かに似ている作品は偽物だと見なされ、読者が許さなかった」と述べています。

夢二と虹児の作品には、単なる「作風の差」ではなく、以下のような違いが見受けられます。

  • 夢二の女性は「思春期後半、やや官能的」、虹児の女性は「思春期前、官能的ではない」
  • 夢二の女性は「誰かを想っている存在」、虹児の女性は「まだ言葉を持たない存在」
  • 夢二の女性は「物語の主役」、虹児の女性は「感情の器」

 すなわち、夢二は”感情を可視化したロマンの演出家”であり、虹児は”感情が生まれる直前の沈黙を描いた詩人”でありました。

最後に

晩年、蕗谷虹児はこんな言葉を残しています。

「死んで地下から私を見護ってくれている、亡き母が私と14しか年が違わずに若すぎたので、私にあんな甘い絵を描かせたのかもしれない。母は若くして美しい人だったから、私はこの母にいつも甘えてばかりいたから。」

そして、

「あんなに弱々しかった母に三人も男の子を産ませた父がうらめしかった」とも。

この女性も惹かれますね。

蕗谷虹児はこんな画家
「女性(母子図」

蕗谷虹児記念館

虹児が育った新潟県新発田市に蕗谷虹児記念館があります。

ご覧のような素敵な建物に数多くの作品や詩などが飾られれています。

私も是非とも1度おとづれたいものです。

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最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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第二の人生に入り、軽い仕事をしながら、風景画を描いて過ごしています。現役の時に絵画を始めてから早10年以上になります。シニアや予備軍の方々に絵画の楽しみを知っていただき、人生の楽しみを共有できればとブログを始めました。