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油彩で花と街の風景を描いています
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”棟方志功はこんな版画家”強烈な棟方作品誕生の背景に迫る!

棟方志功はこんな版画家

”棟方志功はこんな版画家”と題して、あの強烈な棟方作品誕生の背景に迫ります。

昭和世代なら棟方が板木に目を擦りつけるようにして彫る姿を目にされた方も多いと思います。

まるで何かが乗り移っているような集中力!

棟方の生涯をたどり、棟方版画誕生の背景を紐解きます。

なぜ棟方はあのような作品を描いたのか

棟方志功が生きた時代と彼の生涯

棟方志功:1903年(明治36年)9月5日〜1975年(昭和50年)9月13日 享年72歳

棟方は、青森市で生まれています。

青森県は、雪が多く、大変風が強い場所です。

酸ヶ湯温泉(すかゆ)は代表的な豪雪地としてマスコミに良く登場しますよね。

後述しますように、棟方作品と青森・津軽の風土とは大変深いつながりがあります。

棟方が生きた時代

棟方の少年期

  • 1904~1905年(明治37~38年/1~2歳)日露戦争
  • 1910年(明治43年/7歳)韓国併合
  • 1914~1918年(大正3~7年/11~15歳)  第一次世界大戦
  • 1920年(大正9年/17歳) 世界恐慌

日本は、日清、日露戦争に勝利し、その後も第一次世界大戦の物資供給国として繁栄していました。

明治以降ヨーロッパ文化が流入し、芸術・文化面でも大きく花開いた時代でもあります。

棟方の子供の頃はそんな時代でした。

棟方の青年期

  • 1923年(大正12年/20歳) 関東大震災
  • 1933年(昭和8年/30歳) 国際連盟から脱退
  • 1936年(昭和11年/33歳) 二・二六事件
  • 1939~1945年(昭和14~20年 /36~42歳) 第二次世界大戦~太平洋戦争

第一次大戦後の「供給過剰による恐慌」や関東大震災、さらに諸外国からの圧力を受け、日本は壊滅的な苦境に立たされていました。

いわば、戦争へと歩みを進めていた時代です。

画家として生きると決心した棟方にとって精神的に、また生活の上でも大変厳しい時代であったと想像できます。

そして、戦後の繁栄へ

ご存じのとおり、日本は「戦後の混乱期から高度成長期」へと変遷しました。

棟方の生涯

1903年(明治36年) 刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの15人きょうだい(9男6女)の3男(第6子)として生まれました。昔のこととはいえ、すごい数ですね。どうやって棟方は版画家になって行ったのでしょう。

棟方志功はこんな版画家
棟方志功の制作風景

ところで、棟方は子供の頃に囲炉裏の煤で目を痛め、極度の近視になっています。
メガネをかけ、版木に目を擦り付けるようにして掘る姿が目に浮かびます。

1,910年(明治43年/7歳) 小学校に入学。幼少期から家業を手伝っていました。
一方、神社の祭りの灯籠の牡丹絵や凧の絵に惹かれていました。この頃から絵心が育まれていたようです。

牡丹絵
棟方志功はこんな版画家
津軽凧
棟方志功はこんな版画家

1915年(大正4年/12歳)こんな逸話が残っています。
「棟方は、校舎の裏に不時着した陸軍の飛行機に走り寄り、水田の川でつまずいて、転んで倒れた。彼は目の前に咲いていた、オモダカの花の美しさに感動し、この美しさを表現することを決意した」と。
オモダカの花とはこんな花です。水田に咲く花ですが、見たことありますか?
健気な花と軍用機との対比に、棟方は幼くとも生の儚さを感じたのかも知れません。

1920年(大正9年/17歳) 父親が隠居し、鍛治屋を廃業したため、棟方は青森地方裁判所弁護士・控え所の給仕となりました。
棟方は、勤務中も暇を見て公園に写生に出かけていたようです。よほど絵を好きだったのですね。
しかし、有能ぶりを認められて、書記も務めるようになり、好きな絵を描く時間がなくなりました。
そのために裁判所を退所します。

同年、10月25日 母・さだが亡くなります。

先にも書きましたが、この当時は第一次世界大戦直後であり、日本は物資の供給国として繁栄していました。芸術・文化面でも大きく花開いた時代でもあります。

大正ロマンですね。そんな時代感覚が棟方を絵の道へと後押ししたように思います。

1921年(大正10年/18歳)棟方は親友たちと「青光画社」と言う洋画のグループを作り、第一回展覧会を開催します。そこで自信をつけた棟方は画家になる意志を固めます。そして、ゴーギャン、セザンヌ、ロートレック、マティス、ピカソなど洋画家について学びました。
棟方は、ゴッホの話に感動して「日本のゴッホになる」と宣言した、という逸話があります。しかし、この頃の棟方は、ゴッホとは洋画家そのものを指す言葉だと考えていたようです。

「わたばゴッホになる」棟方志功

1924年(大正13年/21歳)上京して絵画に集中します。しかし、帝展や白日会展などに出品するも落選が続きました。
10月26日父幸吉が亡くなります。

1925年(大正15年/22歳)紀尾井町の東京教材出版社に勤め、教科書の表紙や図版を描くようになります。

1926年(昭和2年/23歳)展覧会で見た、川上澄夫の版画『初夏の風』(はつなつのかぜ)に感動し、棟方は版画家になることを決心します。

棟方志功はこんな版画家
川上澄夫『初夏の風』

1927年(昭和2年/24歳)版画を習うかたわら、本の仕事や靴の修理、納豆売りをしてしのいでいました。翌年の第9回帝展で「雑園」(油彩)が初入選しています。

1930年(昭和5年/27歳)4月9日、赤城千哉子さんと結婚します。この頃から文化学院で美術教師を務めるようになります。

1932年(昭和7年/29歳)日本版画家協会の会員になります。

1934年(昭和9年/31歳)佐藤一英の詩「大和し美し」(うるわし)を読んで創作意欲をかき立てられます。

1936年(昭和11年/33歳)作品「大和し美し」が出世作となり、これを機に著名な民藝運動家や文学者との知遇を得ることができ、彼らから多大な影響を受けました。
棟方は、自身の版画作品を板画(ばんが)と呼んでいました。

棟方志功はこんな版画家
版画絵巻「大和し美し」抜粋

1939~1945年(昭和14~20年 /36~42歳) 第二次世界大戦~太平洋戦争

1945年(昭和20年/41歳)5月25日に空襲のために東京渋谷の自宅が全焼し、板木も全て消失しました。やむなく疎開のために富山県に移住します。1954年(昭和29年/51歳)までここに住んでいます。
自宅の八畳間のアトリエを「鯉雨画斎」(りうんがさい)と名づけ、住居は谷崎潤一郎の命名により「愛染苑」(あいぜんえん)と呼びました。交友関係が広かったことが伺えます。

この後の活躍の程は、あまり興味がないので割愛させていただきます。

1975年(昭和50年/72歳)9月13日に肝臓がんで死去。6月頃までは、精力的に仕事を続けておられたようです。

棟方作品とは

津軽と棟方

東北地方にかつて住んでいた蝦夷(えみし)は大和朝廷の支配に屈せず、独自の生活様式や文化を持ち、育んできました。

棟方芸術は、生まれだった津軽の風土と決して切り離せません。

棟方が制作する様子は、津軽のイタコが仏を呼ぶときの口寄せや、同じく津軽の三味線弾きが新しい節を引き出すときの即興演奏のやり方にとてもよく似ているとされています。

イタコと三味線弾きはともに、自分の肉体と精神を疲労の極限まで追い込んでいく苦行の末に、やがて性的なエクスタシーに近い忘我の状態に入って、意識から汲み上げた思いを仏の言葉として口に出し、あるいは三味線の弦に乗せて表現するのだとか。

制作に集中しているときの棟方の状態は、まさにそれを彷彿させます。

青森県の女性霊媒師「イタコ」は、死者の魂を自らに憑依させる「口寄せ」を通じて、生者と死者を媒介します。一方で集落の女性たちの身近な相談に乗るカウンセラー的な存在でもありました。私は、「口寄せ」よりも、女性たちが厳しい時代を生き抜く上でのカウンセラー的な役割の方が大きなウエイトを占めていたのではと思います。


また、棟方は自分の「色彩の源流は、小さい時から見てきた凧絵とネプタ絵になる」と語っています。
まさに津軽が棟方を育てたのです。

棟方志功はこんな版画家 棟方志功はこんな版画家

ここで、評論家の長部日出雄さんのお言葉をお借りします。

「氏の仕事が単に地方性の表面的な探求にだけとどまっていたら、世界の人々に迎えられる事はなかっただろう。ーー棟方氏は現代に生きながら、いわばそうした古代人の感覚を持っていたからこそ、地方性の要素から風土の根源にまで遡行(戻って)して、津軽を世界に化し、さらに宇宙と貸すことができたのである。」

「棟方氏はしばしば血の「騒ぎ」と言うことを口にした。実際に氏の作品を見ていて、血の騒ぎを覚えるのは、遠い昔に狩猟民であった先祖の蝦夷(えみし)の血が呼び醒まされるからなのかもしれない。」

円空作品との出会い

文芸評論家の保田興重郎(1910-1981)さんは、次のように述べています。

「名古屋の紅葉谷に見事な鉈(なた)仏がたくさんあると言うので揃って見に行った。これらの仏は後になって円空上人と言う大きい名で知られるようになるが、初めて見たとき皆驚嘆し、やがて歓喜した。
棟方氏はその木彫り仏の並べられた壇上へ登り、仏に、我が顔を擦り付けるように近づけ、昔も棟方志功がいたと叫んだ。
今の志功が昔の同じ志功を見た驚きだ。自分と同じ人間が、何百千年昔にもいたではないかと言う感銘は詩文であれ、書であれ画、彫の諸々の造形を作るものが時間を超え、浮世の観念と無関係に味わえ驚異だった。」

棟方志功はこんな版画家 棟方志功はこんな版画家

棟方が仏の姿を版画にした「釈迦十代仏弟子二菩薩」は円空の鉈仏を彷彿させるものです

だだし、これらは奈良・興福寺の十大弟子像に触発されて制作されたとのこと。

棟方志功はこんな版画家
釈迦十代仏弟子二菩薩

代表的な棟方作品

たいていの棟方の版画の題には語尾に柵というのが付いています。

棟方が用いる柵とは、四国巡礼の方々が、寺を廻られる時、首に下げ、寺へ収める廻札に準拠しています。

この札は、一つ一つ自分の願いと信念をその寺に収めていくと言う意味で下げるもので、一つ一つ顔掛けの札を収めていくと言う事です。

棟方は、作品に念願を込めて制作し、遺して行ったのです。

ちなみに、棟方は版画を中心に肉筆画や書も残しています。その数は200点と言われています。

その中から私なりに気になった作品をピックアップさせてもらいました。

弁財天妃の柵 1964
棟方志功はこんな版画家
門世の柵 1968
棟方志功はこんな版画家

 

若栗の柵 1945
棟方志功はこんな版画家
竜巻の柵  1945
棟方志功はこんな版画家

 

飛神の柵 1968
棟方志功はこんな版画家
心偈頌 1957
棟方志功はこんな版画家

 

最後に

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

以上は、財団法人棟方版画館「棟方志功展」という本を参考にさせていただきました。ありがとうございました。

当ページを読んでいただくことが、少しでも棟方志功の理解につながれば幸いです。


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第二の人生に入り、軽い仕事をしながら、風景画を描いて過ごしています。現役の時に絵画を始めてから早10年以上になります。シニアや予備軍の方々に絵画の楽しみを知っていただき、人生の楽しみを共有できればとブログを始めました。