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油彩で花と街の風景を描いています
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”神田日勝とはこんな画家”絵画に対する強烈な想いに惹かれて

神田日勝とはこんな画家

”神田日勝とはこんな画家”と題し、32年という凝縮された人生を紐解きます。

日勝は、北の大地で開拓民として生活しながら、独自の画風で絵を描き続けました。

作品には、彼の生き様が色濃く刻まれています。

日勝をもっと知りたくないですか?

生涯と作品をたどります。

北の大地で人生を謳歌した画家・神田日勝とは

神田日勝、素晴らしき生き様と作品

神田日勝(かんだ にっしょう)

1937年(昭和12年)12月8日 ー 1970年(昭和45年)8月25日 享年32歳

日勝の残した作品は、いまなおその輝きを失わず、多くの人々の心をとらえています。

日勝は、北の大地で開拓民として生活しながら、身近な生活に題材を見つけ、一筆一筆に魂をこめて描きました。

そしてその作品は、やがて高い評価を受けるようになりました。日勝の生き様、絵に対する想いが、作品を見る人々の心に伝わったのです。

神田日勝は、私自身が大好きな画家ですし、絵に対する考え方を教えられた画家でもあります。

最後まで、お楽しみください。

神田日勝とはこんな画家 神田日勝とはこんな画家

馬と日勝

神田日勝を一目で表すのが、この作品です。

共に暮らし、共に働いた馬・輓馬(ばんば)を慈しむように描いた作品です。

183x204cmのベニヤ板に描かれています。しかし、その逞しい体がなぜか半分で途切れています。

描かなかったのでしょうか、力尽きたのでしょうか。そうです、日勝の未完の絶筆なのです。

日勝は、先に全体を描くのではなく、端から仕上げていく描き方をしていました。なので、こういう絵が残されたのです。

とはいえ、切ないほど悲しい眼をしてこちらを見ている、半身の馬の姿が、見る人の心をドキドキさせます。不思議な力を持った作品です。

神田日勝とはこんな画家
作品「馬・未完」1970

次は、日勝が作品にかける思いを語った言葉です。非常に考えさせられる言葉ですので、是非ともご一読ください。より深く日勝をご理解いただけると思います

「結局、どう云う作品が生れるかは、どう云う生きかたをするかにかかつている。どう生きるか、の指針を描くことを通して模索したい。どう生きるか、と、どう描くかの終りのない思考のいたちごつこが私の生活の骨組なのだ。」

「機械文明のあおりを受けて人々が既成品的生活を強いられるなかで、クリエイテイブな我々の仕事は既成品的人生へのささやかな反逆かも知れない。」

「芸術は作者にとって表現者にとって最も重大なこと・最も切実なもの、自身の生活に最も強い関わりのあるもの、最もよく知りつくしたものを主題に選ぶべきだと思っています。それでなくてどうして作品を通じて強い発言が出来ましょうか。バラの美しさや、ネックレスの美しさや、青空の美しさは僕の生活にとって僕の人生にとって最も重大だったり最も切実だったりはしないのです。僕の人生観を根低からゆり動かすほどのことではないのです。[中略]バラの美しさやネックレスの美しさは芸術の美とは全々異質だ、自然現象の美しさはそのまま芸術の重みのある日にはつながらない。そこに人間の深い思考が参加しなければ…」

日勝が生活した場所

詳細は後述しますが、日勝は8歳以降、十勝平野にある鹿追町で暮らしています。

鹿追町は大雪山の南に位置し、どこまでも続く大平原、透き通った水の然別湖など、美しい自然に囲まれた町です。

日勝は、美しい自然をモティーフにすることもできたはずですが、それを選ぶことはありませんでした。

神田日勝とはこんな画家 神田日勝とはこんな画家

日勝の生涯

1937年(昭和12年)
128日、東京市板橋区(現東京都練馬区)で生まれました。父は群馬県で衣料品繊維工場に勤めていました。きょうだいは5人で、2人の姉、兄、そして妹がいました。
日勝という名前は、「日本が戦争に勝つように」との願いでつけられました。

1941年(昭和16年)〜1945年(昭和20年) 太平洋戦争

1945年(昭和20年)8歳
87日、戦火を逃れ一家で「拓北農兵隊」に加わり北海道に渡ります。814日に鹿追村(現鹿追町)に到着し、その翌日に終戦を迎えます。

石ころや木の根だらけの5ヘクタールの原野を、家族総出で馬を使って耕しました。父は開拓のかたわら、現金収入を得るため鹿追郵便局に配達員としても働いていました。

1950年(昭和25年)13歳
4月、鹿追中学校に入学。美術部の創部に参加。

1952年(昭和27年)15歳
帯広柏葉高校に通う兄・一明の影響で油絵を始めます。
兄の影響が大変大きかったようです。

1953年(昭和28年)16歳
3月、鹿追中学校卒業。卒業時に「特に美術に優れていた」という賞状を授かります。そして大学に進む兄に代わって家業を継ぐことになります。
それは、開拓民一家として自然なことでした。

1955年(昭和30年)18歳
4月、野幌高等酪農学校(通信教育)入学。兄が東京藝術大学に進学。

1956年(昭和31年)19歳
地元帯広の第31回平原社展に《痩馬》を出品し、朝日奨励賞を受賞しています。
早くから非凡な才能を発揮していたことが伺えます。この後も家業のかたわら、絵の制作、出品を続けました。

神田日勝とはこんな画家
作品「痩せ馬」1956

1959年(昭和34年)22歳
笹川敬農青年団長を務めるようになります。開拓農協の指導により乳牛を導入しました。

1961年(昭和36年)24歳
画家として少しづつ絵が売れるようになり、また表現の幅も広がって行きました。

神田日勝とはこんな画家
作品「ゴミ箱」1961

1962年(昭和37年)    ミサ子さんと結婚
1964年         長男誕生
1968年         長女誕生

この絵は粗末な我が家を描いた作品です。赤い自転車は父親が郵便配達に使っていたものです。

神田日勝とはこんな画家
作品「家」1962

1964年(昭和39年)27歳 北海道が大冷害に見舞われました。
ジャガイモ一個収穫できない状態で、この頃にこんな言葉を残しています。
「食うために農業をやりながら絵を描く、今の状態は変えられません」

1966年(昭和41年)29歳
5回独立選抜展に《牛》を出品。モノクローム調の画面に色彩があらわれ始めます。日勝は「長い間単調な絵ばかり描いていたら、強烈な色への欲望が押さえられなくなった」と語っています。

神田日勝とはこんな画家
作品「牛」1964

1970年(昭和45年)大阪で万国博覧会が開催されました。
世の中は、新時代到来への期待で沸き立っていた頃ですが、厳しい生活が続く中、日勝の心は違っていたようです。

1970年(昭和45年)32歳
全道展に代表作『室内風景』を出品

強烈なインパクトがあります。新聞紙の文字や広告まで、ペインティングナイフで描き込んでいます。
足元に無造作に置かれた品が絵にストーリーを与えています。

神田日勝とはこんな画家
作品「室内風景」1970

日勝は、4月頃から体調不良の兆しが出始めます。発熱が続くようになるも、解熱剤を服用しながら活動を続けました。しかしながら、812日、ついに入院。816日に一時帰宅許可がおり自宅へ戻るもその後容態が悪化し、再入院。

亡くなる前に妻にこんな言葉を残しています。
「ローソクの火ってね 消えてなくなる時 一刻だけボウーと最後の炎を大きくするんだよ」
最後の炎で残される作品を仕上げたかったのかもしれません。

825日、腎盂炎による敗血症で逝去(享年32歳)。

腎盂炎(ジンウエン)による敗血症とは
腎臓に細菌が感染する病気です。膀胱から大腸菌などの細菌が逆流して、細菌が繁殖します。この細菌が血液にまで侵入したものが敗血症で、死に至ることもあります。早期に適切な治療を受けていれば死なずに済んだかもしれません。

日勝の描き方と作品

日勝はペインティングナイフを使って、油彩でベニヤ板に描いています。

その理由について、本人からの発言はありません。

ただ、日勝の絵は、農耕に使われた蟠馬(ばんば)の絵から始めました。

自身の思いを表現するのに、ベニヤ板は好都合なキャンバスであったと思われます。

「絵を描く行為は排泄行為と同じで、我慢できなくなったら漏らしてしまう」(日勝)
こんな思いで絵を描いていたのです。

それでは、上でご紹介できなかった代表作を少しのせておきます。大冷害に見舞われるも、長男が誕生し、新たな心境で絵を描いていた1964-5年の作品です。

作品「一人」1964

色合いがいいですね。

同年の第32回独立美術協会展に《三人》と《一人》を初出品し、《一人》が初入選しています。

人物画にもモティーフを広げた作品です。

神田日勝とはこんな画家
作品「一人」1964

作品「馬」1965

これも馬を描いた作品。日勝は、屋外で働いている馬を描いたことはありません。全て、馬房での光景です。

もちろん、描いた馬は、サラブレッドの2倍以上の体重がある輓馬。

この絵では見分けることができませんが、馬の絵にはある共通点があります。

それは、肩の部分に毛の禿げているところがあることです。

輓馬は農耕の時に胴引きをつけます。激しい労働のために、胴引きが擦れ、毛が禿げてしまうのです。そこは、皮膚が現れ、血管まで浮き出して見えます。

日勝の馬をいたわる想いが伝わってきます。

なお、馬の毛は一見すると同じ黒ずんだ色に見えますが、実は赤、青、黄色などの原色も使われています。

神田日勝とはこんな画家
作品「馬」1965

作品「静物」1965

大変カラフルな作品です。この頃から、派手な色使いの作品が増えています。

雑多な静物画ですが、それだけに日勝らしい作品に仕上がっています。

神田日勝とはこんな画家
作品「静物」1966

最後に

1993年6月(平成5年)鹿追町に神田日勝記念館が開館します。(後に神田日勝記念美術館に改称)

鹿追町関係者、多くの日勝ファンの想いが実現した瞬間です。

ここには、日勝の絵画や素描、その他関連資料がたくさん収蔵・展示されています。没年に描かれた未完の馬の見れますよ。

是非ともお立ち寄りください。


こんな風に、他にもいろんな画家や作品を紹介しています。

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第二の人生に入り、軽い仕事をしながら、風景画を描いて過ごしています。現役の時に絵画を始めてから早10年以上になります。シニアや予備軍の方々に絵画の楽しみを知っていただき、人生の楽しみを共有できればとブログを始めました。